*1) 「日本のクラシック音楽は歪んでいる」森本恭正、光文社新書、2024、p116−120*2) 「雨のことば辞典」倉嶋他編、講談社学術文庫、2014*3) 「擬音語、擬態語辞典」山口仲美、講談社学術文庫、2015*4) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p72*5) 「述語制の日本語論と日本思想」飯島英一、日本国際高等学術会議研究叢書.述語制の日本;1巻、哲学する日本.4、p465*6) 「日本とは何か」今野真二、みすず書房、2023、p242国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇日本語の「世間」には自然物も含まれる前回、主語を使わない日本語は、自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」で互いに意思疎通を図る言語なのだというお話をした。そして、その「世間」で意思疎通を図る相手は、人間に限らないとお話しした。秋の草むらの虫の音を、西欧人は雑音として聞くのに、日本人は虫の音として聴くのである。そのような西欧人と日本人の違いは、近代西欧音楽が純音を基本としているのに対して、邦楽は「サワリ」や「唸り」というように、わざと「雑音」を取り入れているという点にもあらわれている。明治のはじめに日本各地を回り「日本紀行」を著したイザベラ・バードは、新潟を訪ずれた時に邦楽を聞かされて、こんなものが音楽かという不快感を記している。英国人のイザベラ・バードにとって、日本の謡いは雑音でしかなかったのである。ちなみに、日本の尺八や篠笛の演奏では舌を使ってリズムをとることをしなかった。それは、世界の管楽器の中で唯一のことだったという。邦楽は、ただそこに音がある。その音は、自然という世界に溶け込んでいくものだったということだ。たとえて言えば自然の中に吹く一陣の風を表現しようとしており、自己主張をしなかったからだという*1。日本語には雨の音が無数にあるが、それも日本人が雨の音も「言葉」として聴いているからだ*2。雨のような自然物とも「対話」をすることから、無数の擬音語、擬態語を持ち*3、それらを使いこなしてファジーな状況を言語化しているのが日本語なのだ。「パクパク食べて、ガンガン飲む」「スーと来て、サーと消える」といった擬態語の表現は日本語特有で、そんな表現を含む日本文学の翻訳は外国人には難しいという*4。英国の猫は動詞で鳴くが、日本の猫は副詞で鳴くという*5。そんな自然との対話をも詠み込んでいたのが和歌だったが、時代が移るにつれて本来の感覚が分からなくなっていた。それを江戸時代に、同時代人に分かるように「翻訳」したのが本居宣長で、宣長はそのような作業によって言語化された「文献テキスト」から、和歌が詠まれた時代の日本人の「こころ」に分け入っていったのだという*6。本居宣長と言えば、漢意(からごころ)を排したことで知られるが、それは自然とも対話をする日本語の本来の姿を取り戻そうとしたのだと考えられる。日本の音楽が、わざと「雑音」を取り入れているなどというと首を傾げられる向きもありそうだが、まずいものさえ評価するのが和食だと聞くと、それなりに納得がいくのではなかろうか。例えば、私は退官後にお茶を習っているが、茶懐石ではご飯を3回食べる。1杯目は蒸らしていないべちゃのご飯で美味しくない。それは生まれたての瑞々しい、最も清らかな水の味を賞味するのだという。2杯目はよく蒸らした、匂いまでおいしいご飯。3杯目はお焦げにお湯をさして、塩を入れ、お焦げの香ばしさを味わう。それでご飯の一生を味わい尽くすのだという。そのようにして、日本人は枯れていく最後にまでおいしさを見出すことで幸せになれるのだという。日本料理における「おいしい」は、偶然のご褒美で、まずいものをおいしくしようとする必要はないという。和食には食材と調理法があるだけで、料理の名前すらない。その基本が「一汁一菜」だという。大阪の「味吉兆」で日本料理を修業され 28 ファイナンス 2024 May日本語と日本人(第2回)―「世間」で楽しむ日本文化―
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