ファイナンス 2024 Apr. 89このような変遷を辿り、現在の成田地区の税関3官署(室)の職員は約930名となっており、全国税関の約1割を占めるに至っている。成田山新勝寺は、平安時代940(天慶3)年、朝廷の命を受けた寛朝大僧正が平将門の乱を鎮めるため関東へ向けて出発、成田において21日間にわたって御護摩祈禱を行い、その最後の日に乱が平定された。その後、寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、不動明王から「この地に留まり人びとを救う」という霊告を受け、朱雀天皇より「新勝寺(新たに勝つ)」の寺号を賜り開山された。また、成田山新勝寺は、歌舞伎役者の市川團十郎とも深い関わりがあることは知られているところ、市川家と成田は初代團十郎の父親が現在の成田市幡谷出身であることもあり、子供がなかなかできなかった初代團十郎は、成田山に祈願し、願いか成田国際空港成田国際空港は昨年開港45周年を迎え、日本の空の玄関として、多くの出入国旅客が利用し、多くの輸出入貨物を取扱ってきたところである。その歴史は前身となる羽田空港の国際線が昭和45年頃には限界に達するとして、その対応策が検討され、成田市三里塚に昭和53年5月、A滑走路1本(4000m)と1つの旅客ターミナルビル(現在の第1旅客ターミナルビルの一部)で供用開始となった。その後、平成4年には第2旅客ターミナルビルが供用開始され、平成14年4月には、同年5月から開催される日韓サッカーワールドカップに間に合わせる形で暫定平行滑走路(2,180m)の供用開始、平成21年にはこの平行滑走路が2,500m化されるなど、開港当初の1つのターミナルビル、一本の滑走路から大きく拡大されてきた。さらには、今では旅行の足として欠かせない格安航空会社(Low Cost Carrier:LCC)専用の第3旅客ターミナルビルが平成27年にオープンするなど利用者の増加とともに拡張し、国内外のネットワークを支える空港となっている。成田の名所なって男の子が生まれた。このことをきっかけにして、初代は不動明王を演じることが多くなったことから、「成田屋」の屋号で呼ばれるようになったのである。新勝寺に次ぐ成田の名所である宗吾霊堂は、宗吾様の名で親しまれる古刹で、紫陽花の名所として知られており、開基は古く征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立したといわれている。正しくは鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂といい、江戸時代の義民木内惣五郎(佐倉宗吾)が祀られているお寺として全国の信者が訪れる。江戸時代初期、佐倉藩の年貢率は高かったそうで、苦しむ農民のために、木内惣五郎ら6人の名主たちが幕府に訴え、惣五郎は将軍への直訴を決行。これにより重税が見直され村々の願いはかなえられたが惣五郎とその家族が死罪となった。それから100年後、佐倉藩はその失政を悔い、木内惣五郎の名誉を回復し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになった。ちなみに、成田といえば新勝寺が先に思い浮かぶが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているとかいないとか。航空事業は昭和27年に民間航空が再開された後、飛躍的な発展を遂げ、かねてから航空関係者等から、欧米のように我が国でも航空博物館を創設し、民間航空の実状の紹介、航空界の歴史的経緯の展示等が強く要望されていたため、航空に関する知識の啓発を図り、航空科学技術の振興に寄与し、我が国の航空の発展に資することを目的に、博物館の建設・運営の事業(1)成田山新勝寺(2)宗吾霊堂観てよし!航空科学博物館成田市
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