浜松IC‘79~ニチイ宮竹店‘00~浜松プラザ‘04~イオンモール浜松志都呂’80~ジャスコ浜松西→イオン浜松西‘07~サンストリート浜北’73~旧ユニー浜松泉町→MEGAドン・キホーテUNY‘05~イオンモール浜松市野中心市街地再開発エリア図1の範囲’79~サンテラス浜北→‘08~プレ葉ウォーク浜北‘09~ららぽーと磐田遠州豊田PA図3 広域図(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成店が移ってきた。元は天竜川西岸に本店があった銀行で、大正8年(1919)に浜松銀行と改称。昭和18年(1943)に静岡銀行に合流する。田町新道には明治36年(1903)に資産銀行、昭和3年(1928)に遠州銀行が本店を新築した。遠州銀行は現在の静岡銀行浜松営業部である。イオニア式の柱頭が特長で地元出身の中村與よ資し平へいの設計だ。中村は静岡県庁、市庁舎や静岡銀行本店も手掛けている。鍛冶町は百貨店の発祥地でもある。まずは昭和11年(1936)、浜松初の百貨店「棒屋」が開店。その翌年には8階建の松菱百貨店が開店した。創業者の谷政まさ二じ郎ろうは、実兄の中林仁一郎とともに京都駅前にあった丸物百貨店(後の京都近鉄百貨店)を経営していた。松菱は弟の政二郎が立ち上げた系列店だった。三十年史によれば田町も出店候補地だったが、「田町は繁華であり、鍛冶町は閑散とした所であったが駅に近く、道路が広い」ことから鍛冶町を選んだ。当時の田町と鍛冶町の関係がうかがえる。界隈は戦後も大型店の出店が相次いだ。昭和35年(1960)のほていや(ユニーの前身)に始まり、昭和38年(1963)に長崎屋、昭和44年(1969)にニチイ、そして地元スーパーのマルサを傘下に収めたジャスコが進出する。この年の最高路線価は松菱前の「鍛冶町安田信託銀行浜松支店前通り」だった。昭和46年(1971)、松菱と並ぶ浜松の顔となる西武百貨店が、昭和49年(1974)には丸井が開店した。郊外道路網の発展と浜松駅の後退同じ頃、現在に至る変化を鍛冶町界隈にもたらす大きな出来事が2つあった。1つは郊外道路網の開通である。東名高速道路の延伸に伴い浜松ICが開設されたのは昭和44年(1969)で、これは浜松バイパスの供用が開始された年でもある。しばらくしてロードサイド店の出店が始まる。昭和48年(1973)にユニー浜松泉町店が出店。現在はMEGAドン・キホーテUNYになっている。昭和54年(1979)にはニチイ宮竹店が開店した。サティへの改装を経て閉店し、跡地は隣接する浜松プラザに取り込まれている。昭和55年(1980)には中心部のジャスコ浜松店を閉め、郊外に浜松西店を出店した。現在のイオン浜松西である。もう1つは浜松駅の後退である。まず、昭和39年(1964)に開業した新幹線の駅は当時の浜松駅に対して若干南側に配置せざるをえなかった。在来線に密着するかたちで新幹線駅を配置すると高速運転にしてはカーブが急になるからだ。在来線と新幹線の駅が離れている状態が解消したのは、浜松駅の高架化事業が完了した昭和54年(1979)である。高架駅の完成に伴い新幹線駅と一体化した。高架化に伴い旧駅北側にあった貨物ヤードを移し、空いた土地を旧駅の敷地と合わせて再開発した。それが現在のアクトシティである。もっとも、駅が南側に移転したことで鍛冶町界隈は駅から遠くなった。浜松駅の高架化に続き、遠州鉄道の高架化事業が始まった。天竜川に沿って南下する路線は、浜松市街に入ると馬込川に向きを変え、馬込駅からスイッチバックして国鉄線に連絡する旭町駅(新浜松駅)に至っていた。高架化を機にスイッチバックを解消し、新川の流路に路線を移すことにした。昭和60年(1985)に完成。鍛冶町に代わる新しい「駅前」には昭和62年(1987)にイトーヨーカドー、その翌年に遠鉄百貨店と駅ビル「メイワン」が開店した。郊外の発展と駅の移転は鍛冶町界隈の立地上の不利に働く。アクトシティが完成した平成6年(1994)に丸井が撤退。その翌年には最高路線価地点が「砂山 74 ファイナンス 2024 Apr.
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