第50回 「静岡県浜松市」第50回 「静岡県浜松市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D資本主義の精神の元になった報徳思想静岡県の人口は360万人で北陸3県を上回り四国4県とほぼ同じ。面積は記憶に残る7777km2だ。伊豆、駿河、遠江の旧3国から成り、それぞれ文化気風が異なる。中でも浜松が属する遠江地区は愛知県三河地区と近い。県紙は静岡新聞だがブロック紙の中日新聞のシェアも高く、浜名湖西岸の湖西市では県紙を上回る。ホンダ、スズキ、ヤマハなどの創業地でもあるようにチャレンジ精神が旺盛で「やらまいか」という遠州弁が知られている。県都静岡との関係からいえば、慎重を旨とするリーダーの戦略に対しチャレンジャー戦略を選択するという経営戦略論にも通じる。城下町の歴史を辿ると、浜松は徳川家康が29歳から45歳までの働き盛りの時代を過ごした場所である。元亀元年(1570)、甲斐の武田家対策として岡崎から浜松に転居した。浜松北郊の三方ヶ原で武田軍に手痛い敗北を喫するのはその2年後である。浜松城は、武田家滅亡後、天正14年(1586)に駿府城に移るまでの本拠地だった。徳川政権下では譜代大名が入れ替わり赴任する城となった。歴代城主は再任含め25代いる。エリートが配置される「出世城」で、後のキャリアで老中に上り詰めたものが6人いる。銀行でいえば小さくとも店格が高い創業店舗のようなものか。産業の源流をひもとけば浜松は木綿の産地だった。明治以降は三河、泉州に並ぶ綿織物産地となった。幕末にはときの思想家、二宮尊徳の報徳思想が浸透した。報徳思想は至誠・勤労・分度・推譲の4つの徳を説く。分度すなわち節約を旨とし、その余剰を推譲、すなわち必要とする人や次世代に引き継ぐという職業倫理が根底にあった。西洋においてキリスト教改革派による救霊の証としての勤勉と禁欲が巡り巡って資本主義の精神に転じたのと相似している。綿織物や製材業をはじめとする産業土壌が資本主義の精神で耕され、オートバイや楽器など様々な機械工業に派生した。明治4年(1871)、宿場町南端の上新町(後に菅原町)を起点とする堀留運河が開削され、東海道に並行して浜名湖まで水路がつながった。上新町には船溜まりが設けられ、後に蒸気船が就航した。鉄道が普及する前は、陸路と水路の便がよい神明町から連れん尺じゃく町ちょう、伝馬町にかけて賑わっていた。中でも銀行が多く集まったのが伝馬町である。例えば県下一番行の静岡銀行の創業は昭和18年(1943)とされる。これは静岡三十五銀行と遠州銀行が合併し、現在に連なる静岡銀行が設立された年である。遠州銀行の源流は、明治6年(1873)に半官半民で設立された資産金貸附所にさかのぼる。静岡銀行史によれば、岡田佐平治が窮民撫育を目途として藩に醵出した「報徳金」100両が元手になったと伝わる。岡田佐平治は二宮尊徳の高弟で掛川藩の大庄屋、全国の報徳社を統括する大日本報徳社の初代社長だった人物だ。明治26年(1893)、資産金貸附所は資産銀行となり本店を板屋町から伝馬町に移した。遠州銀行2つ目の源流は明治13年(1880)に開業街道拠点の神しん明めい町ちょう・伝でん馬ま町ちょう浜松は、京都三条大橋から数えて25番目となる東海道五十三次の宿場町でもある。街道は宿場町の手前で北上し浜松城大手門に突き当たる。高札場があった門の前で右折して、今度は東西の道を東に向かう。門前の十字路から東に向かって最初の町が神明町だった。明治18年(1885)の静岡県統計書によれば、当時の宅地の最高地価があった場所だった。 72 ファイナンス 2024 Apr.車社会が進むがウォーカブルシティ先進地車社会が進むがウォーカブルシティ先進地路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史
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