ので、「足が痛いです」と言うと、高校生なのに、トレーナーの方が飛んできてくれて、足をマッサージしてくれました。またシューズがすり減ってペタペタになると、大手シューズメーカーからシューズが四足ぐらい送られてきたりしました。まだ人間ができてない高校生のうちからそうでしたから、「自分を中心に、みんなが何でもやってくれるのだ」という思い込みのようなものがあったのです。そして期待された20歳のときのオリンピックで、プレッシャーに負けて、私は16キロで途中棄権してしまったのです。私がオリンピックという大舞台で思っていた走りができていなくて、「すごくみじめな走りを今日本中の人が見ているのだ・・・」という思いで頭がいっぱいになり、そういう恰好悪い自分に負けました。結局オリンピックでメダルを取る人は、人間力で取る、と言うじゃないですか。私の人間力は未熟だったのです。16キロで棄権して、日本に帰ってきました。成田空港に着いた時、通りすがりに顔を見られてしまい、見ず知らずの人から「おい、非国民!」と指差されました。その言葉が刺さってしまい、街中を歩いていても、みんなから指差されているような、そういう空気を感じて、ちょっと病気みたいでしたね。人の目が怖くなって寮の部屋に約3か月引き籠って、どうしたら楽になれるか、シャボン玉みたいに消えてなくなることができるか、ということばかり考えていました。私が元気を取り戻したのは、励ましの手紙に助けてもらったからです。当時は人と話すのも嫌だから、電話線とかも全部抜いていたのですけども、それで母親が心配になって、いろいろ料理を作って持ってきてくれたときなどに、全国から届いた手紙を見せてくれました。その手紙を読むと、皆さん優しいのです。今でもよく覚えていますが、便箋10枚ぐらいに70過ぎの男性の方がそれまでのご自分の人生を綴って送ってくださったのです。私の悩みは、陸上の世界、競技の中だけの小さな悩みに過ぎないことを、その手紙は私に教えてくれました。その手紙には経営がうまくいかなくなって、それこそ大変な思いをされたことなどが書かれていて、最後に「増田さん、マラソンは長いけど、人生はもっと長いのだから、元気出して頑張りましょう」と書いてありました。私はその手紙を読んで泣きました。それからハガキ1枚で届いた手紙は今でも残してありますけれども、大きな優しい、笑っているような文字で、「明るさ求めて暗さ見ず」と書いてありました。良い言葉ですよね、「非国民!」という人もいるけれども、「明るさを求めて暗さ見ず」と励ましてくれる人もいる。人は人に助けられながら、人生の長距離ランナーとして一歩一歩前に進んでいるのだ、ということを、オリンピックの失敗を通じて学ぶことができました。「神様が人に失敗を与えるのは、その人に足りないものがあるからだ」と言われますけど、まさに私がそうです。それまでは高飛車なところがありました。オリンピックでの挫折を通じて人に対する感謝の気持ちを教えてもらえて、人生の勉強をさせていただいたと思います。少しずつ元気になってきたら、私はまた走り始めました。でも42.195キロを走るには、長いから本当に勇気が要るのですね。またフルマラソンを走って、もう1回止まるようなことがあったら、私は、今度は立ち直れないかもしれない、という怖さもありました。だから4年間マラソンは走れなかったのです。でも「ビリでもいいからゴールまで行かないと、本当の意味での新しいスタートは切れないな」という気持ちになって、かつてオリンピックの切符を掴んだ大阪国際女子マラソンを走りました。そのときは、本当にゴールまで行くことが目標でしたから、第3集団を走っていても楽しかったですね。沿道からは「増田さん、おかえり!」という掛け声があったりして、本当に待っていてくれたのだ、というマラソンでした。今でも忘れられないのは、27キロ地点で、男の人の太い声で、「増田、お前の時代は終わったんや!」という野次が飛んだのです。 62 ファイナンス 2024 Apr.10. 大阪国際女子マラソンに参加、完走
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