ファイナンス 2024年4月号 No.701
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ファイナンス 2024 Apr. 61令和5年度職員トップセミナー2020東京五輪のときは、コロナ禍でしたからほとんどの競技が無観客でした。5月の世界パラ陸上競技選手権大会では、できるだけ子供たちにトップアスリートに触れてもらおう、ということで、いろんな小学校、中学校、また高校などの生徒たちも見に来てくれますし、ボランティアでも参加してくれます。今、私が感動しているのが子供記者です。神戸で行われる日本選手権やパラリンピックなどのリハーサルが開催されると、子供記者の皆さんが取材に来てくれるのです。これからこういったものが新しいレガシーとして残っていくのが素敵だな、と思います。2月7日になると開催100日前となり、ドーンと応援団も増えますので、PRのビデオなども流させていただく予定です。たくさんの方に見に来ていただきたいって思っていても、自分たちが強くないと魅力的ではないのです。強くて愛される選手というのが一番じゃないですか。大谷翔平さんなどを見ていても、そうですよね。強くて愛される選手を目指そう、と選手たちとよく話しています。のです。それは「失ったものを数えるな。今あるものを最大限生かしましょう」という言葉です。これは「パラリンピックの父」と呼ばれているルードヴィヒ・グットマン博士の言葉です。パラの選手たちというのは、例えば視力を失っても、聴力に頼って走り幅跳びをします。また交通事故で右脚を切断した選手は「まだ左足がある」と。脊髄損傷で下半身まひになっても「腕で車いすをこげる」というように、気持ちを切り替えて競技に取り組んでいます。ひと山越えての競技者なのです。先ほども触れたメダリストの山本篤さんという、みんなの兄貴と慕われる走り幅跳びの選手がいらっしゃいますが、この方も交通事故で足を失ったときには死んじゃうかな、と思ったそうです。でも、恩師や家族の支えなどがあって、パラリンピックという目標ができて、また頑張ることができたそうです。7.失ったものは数えるなパラの多くの選手が座右の銘にしている言葉がある長年の努力で鍛えた体から生まれるパフォーマンスは、すごく良いものを与えられると思うから、選手たちは、失ったものを数えるのではなくて、今残っているものを最大限生かしていこうと、頑張っているのです。パラの選手たちの、残された機能を生かしながらのパフォーマンスを見て、一緒に合宿をするオリンピックの選手が「体の動かし方の参考にしたい」というケースもあるのです。100m走の山縣亮太選手などはそうですね。同じ慶応大学で一緒に合宿をした高桑早生さんという義足の走幅跳と100m走の選手がいるのですけども、一緒に合宿をしたら、山縣さんが「高桑さんの体の動かし方がヒントになった」ということで、コーチも一緒にしてしまって、高桑さんのコーチの方に今見てもらっています。だから、山縣さんが100m9秒台を出したときにも、彼は「高桑さんからすごく良い影響を受けた」と言っていました。分、若い方は知らないですよね。私が出場した1984年のロサンゼルス五輪が、女子マラソンが正式種目になって初めてのオリンピックだったのです。岩手県で先生をやってらっしゃった佐々木七恵さんと2人でオリンピックの日本代表になって出場しました。私は高校時代が黄金時代で、高校3年生のときに当時のトラック種目からマラソンまでの日本記録を全部塗り替えて、天才少女と言われていました。教わった先生が良かったのです。俳優の滝田栄さんのお兄様(滝田詔生さん)が私の先生でした。先生のお宅で畳の部屋一間の下宿生活をしていましたけど、その畳の部屋を次に使った人が室伏広治さんです。「彗星の如く現れた」とスポーツ紙にも書いてもらって、調子に乗っていました。もう本当に強かった8. パラの選手の体の動かし方が参考9.ロサンゼルス五輪での挫折私は高校時代には天才少女と言われていました。多になる

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