ファイナンス 2024 Apr. 47日本語と日本人(第1回−総論)*9) 「人類精神史:宗教、資本主義」山田仁史、筑摩書房、2022,p215-16*10) 「規範としての民主主義・市場原理・科学技術」藤山智彦編著、東京大学出版会、2021、p316*11) 「言語はこうして生まれる一即興する脳とジャスチャーゲーム」モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター、新潮社、2022*12) 「心はこうして創られる」講談社選書メチエ、2022,p255*13) 金谷武洋、2010、p17、52、187*14) 山口仲美、2023,p197−201*15) 中国語には、敬語はないが丁寧語があり、相手の呼び方は相対敬語の日本と同じ(影山輝國、「影山輝國先生論語義疏」2022、9・15、経学研究会、しまうまプリント、p18)無常性といってもいいのが日本語における自己なのだ*9。そのような日本語を、赤ん坊は、「世間」の中にいる母親からの語りかけによって自然に習得する。「おふくろさん」という言葉に対する特別な親しみも、そこからきていると言えよう。少し難しいことを言うと、西田哲学による「我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである」「我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である」*10というのが、そういうことなのだと考えられる。それは、西欧近代思想の始祖と言われるデカルトが言っていた「我思うゆえに我あり」という「我」のようなものが存在しないということである。またしても、そんな馬鹿なといわれそうだが、これは英国の脳科学者でウォーリック大学経営大学院のニック・チェイター教授が「言語はこうして生まれる」という本*11の中で述べていることでもある。同教授によれば、一部の哲学者や心理学者が愛してやまない「自己意識」なるものは、ナンセンスの極致だという。人の脳は、その時注意を向けている感覚情報を整理統合して意味をとるために絶えず奮闘している存在で、感覚世界の一部ではない「自己」を意識するなどという話は支離滅裂なナンセンスなのだという*12。ちなみに、東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授は、日本人にとっての「自立」とは、他者に依存しなくなるということではなくて、多くの人に少しずつ依存できるようになることだとしている。なお、デカルトの「我思うゆえに我あり」は、中世のスコラ哲学では「我ありゆえに我思う」といわれていたのを逆転させたものだ。西欧でもかつては近代的な「自我」などはなかったのである。このあたりの話は、チャットGPTが登場してきた今日、AIと人間の知能の違いは何だろうかという問題にも関連することなので本論稿の最後に考察させていただくこととしたい。日本語における敬語「世間」で規定される前の独自の自分、自己などはない、日本語における自己は「世間」の中で変幻自在に立ち現れるものだということは、日本語独特の敬語の存在からも分かることだ。敬語には、尊敬語と謙譲語と丁寧語があるとされるが、日本語の敬語は相手との関係によって臨機応変に使い分けられる独特のものである*13。それは、相対敬語と言われるもので、日本語ではそのような相対敬語を使いこなすことによって、相手との心理的な距離をうまくコントロールしている。しばらく会っていなかった同級生とは、最初は敬語で話すが、やがて丁寧語になり、最後はタメ口になるといった具合である。夫婦喧嘩では、突然「お好きになさったら」といって相手にとどめを刺す。それは、「世間」における相手との相対的な関係を臨機応変に取り結ぶもので、子供を持つ女の先生が、相手によって「ママ」とよばれたり「先生」とよばれたりするのと同様のことだ。敬語の使い方、すなわち相手との心理的な距離を測り損ねると大変なことにもなりかねない*14。西欧諸国の言語や、中国語*15、韓国語ではこんなことはない。ちなみに、韓国語にも敬語があるとされるが、日本語の相対敬語とは似て非なる絶対敬語といわれるものだ。取引先の相手に対しても、「わが社の社長様がおっしゃいました」というように使う。従業員にとっての社長は、絶対的に敬意を払うべき存在というわけだ。それは、日本語の敬語のように「世間」の中での社長の相対的な位置づけに応じて臨機応変に使分けられる敬語ではなく、自分と特定の人(社長)との固定的な関係に基づく絶対的な敬語なのだ。日本人の感覚では、社長に対する丁寧語を社外の人に対しても使っているという感じである。人間社会・文明の形成と言語そのような敬語を使って「世間」での意思疎通を図る日本語の他の発言者への反応速度は、他の言語の場合に比べて格段に短いという。これは、シドニー大学
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