*7) 「日本の感性が世界を変える」鈴木孝夫、新潮選書、2014,p30*8) 鳥獣戯画を面白がるのも、その感覚からといえよう。葉もないのだという*7。虫の音の聞こえ方の違いは、西欧人が虫の音を直感的に何かを決めるときに働く右脳で聞くのに対して、日本人が言語を操る左能で聞くからだということが科学的に明らかにされているが、生まれつき日本人の脳と西欧人の脳が違っているはずはない。では、日本人がどうして虫の音を虫の「声」として聞くようになるのかといえば、それは日本人が日本語を話すからだと思われる。では、そのような日本語はどのようにして生まれてきたのかといえば、私はそのカギは八百万(ヤオロズ)の神々が混とんの中から誕生してきたという日本神話の中にあると考えている。以下、この点について説明させていただくこととしたい。一神教であるキリスト教の世界では、人間は唯一の創造主によって創られ、生きとし生ける万物を統べるようにとされた。それに対して多神教と言われる日本の神話には唯一の創造主などは登場しない。初めにあったのは混とんで、神々もその混沌の中から生まれてきた。そして、人間や動植物の誕生については何も述べられていない。ということは、人間や動植物も神々と同じように混沌の中から生まれてきたといえよう。それは、日本では優れた人間は今でも神になるということからうかがわれる。大手町に神社がある平将門しかり、近年では日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎が原宿の東郷神社に祀られている。もともと混沌の中から神々も生まれてきたのだから、今日でも優れた人間が神になるのは当たり前というわけだ。そのように混沌の中から万物が生まれてきたと考える日本人には、人間が万物を統べるなどという感覚はない。それどころか、混沌の中から生まれてきた動植物も同じ「世間」に存在する者同士という感覚をもっている。「やれ打つな、ハエが手をする足をする」という小林一茶の俳句も、その感覚からのものだといえよう*8。そのような日本人にとって、秋の草むらの虫の音を、「声」として聞くのは当たり前なのだ。それに対して、唯一の創造主から万物を統べるようにと創造された西欧人にとっては、統べるべき万物の一つである虫の発する音は雑音にしかならないというわけだ。なお、混沌の中から神々が誕生してきたというのは、ギリシャ神話でも同じだ。ゲルマンの伝説やアジア・アフリカのアニミズムの世界でもこの世は精霊に満ちているが、それらも混沌の中から生まれ出てきたという神話からのものではなかろうか。世界の言語の中で、主語を使う言語が少数だというのは、そんなところからすれば当然のことのように思われる。ただし、今日、世界の多くの人々が信じているのは、キリスト教やイスラム教といった一神教である。そのことには、今日、英語が世界の主要言語になっているという現実と重なり合うものがあると言えよう。そのような世界で、日本語で生き抜いていくにはどうしたらいいのかを考えなければならないということである。自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」の中で、互いに意思疎通を図る言語として発達してきた日本語の下で生まれてきたのが、他人より先にしゃべることをためらう文化だ。「世間」の中での会話なので、自分の意思表明をするよりも前に、「世間」の中での自分の位置を見極めようとするのだ。だから、主語を使わないのだ。「世間」の中での自分の位置を見極めようとするということは、「世間」の中で自己を規定するということである。「世間」で規定される前の独自の自分、自己などないということだ。そういうと、そんな馬鹿なといわれそうだが、例えば子供を持つ女の先生は、ある時はお母さんと呼ばれ、ある時はママと呼ばれ、生徒からは先生と呼ばれ、友人からはあなたとよばれるというように変幻自在だ。英語なら“you”の一語で済むものが、何通りもあるのだ。それは、「世間」の中で相手と自分とが関係をとり結ぶことで、時々刻々と新たな自己が立ちあらわれてくるという世界だと言えよう。自己も他者も、「世間」での出会いに先だって確立している絶対的な存在などはないのだ。関わりあうことで立ちあらわれてくる、可変的な存在、というより状態の連続としての、いわば 46 ファイナンス 2024 Apr.「世間」の中で会話をする日本人「世間」の中で自己を規定する日本語
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