ファイナンス 2024年4月号 No.701
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ファイナンス 2024 Apr. 45日本語と日本人(第1回−総論)*4) ラテン語の場合、人称代名詞の主格は主語を強調したり対比したりする時以外使われない(「しっかり学ぶ初級ラテン語」山下太郎、ベレ出版、2013,p116)*5) 「英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ」金谷武洋、講談社選書メチエ、2004*6) 「日本語には敬語があって主語がない」金谷武洋、光文社新書、2010、p19−24のは、今日、世界を席巻しているのは主語を使う英語であり、公的な国際会議でもビジネスの世界でも、効率的なコミュニケーションを行うためには英語を用いることが不可欠になっているが、実は世界の言語の中で、英語のように主語を使う言語は少数だということである。世界では今日6000ほどもの言語が話されており、うち160余りが主要言語とされているが、主語を使うのは欧米の10ほどの言語と中国語くらいなのである。例えば、ギリシャ語やラテン語*4では主語はほとんど使われないし、かつては英語でも主語は使われていなかった。英語が主語を使うようになったのは近世になってからのことなのである*5。日本語が主語を使わないことのわかりやすいケースが愛の告白だ。これは、日本語には主語がないということを早くから指摘していたカナダ在住の日本語学者の金谷武洋氏が講演などの例示で取り上げておられることだ。日本語では、異性に愛を告白する時には、贈り物をしたり、レストランでご馳走をしたりと雰囲気を盛り上げたうえで「好きだよ」とだけ言うのが普通だ。主語を使って「私は、あなたが好きです」などと言ったのでは、相手は学校の先生から講義を受けているような気分になって、考えさせてくださいということにもなりかねない。日本人には、「好きだよ」だけで十分なのだ。主語を使うなどという無粋なことをしては雰囲気を壊してしまう。主語を使わなくても何の不自由も感じないし、むしろ使わないことによって「雰囲気」に合わせた細やかなコミュニケーションを実現しているのだ。そこには、「私は」という主語や「あなたが」などという目的語は登場せず、「愛」という感情を自分と相手とで共有したいという願望を表す「好きだよ」という言葉だけが直截に表現される。それは、自分(I)の「好きだ」という能動的、意図的な行為(love)ではなく、「好きだよ」という状況をある意味で自分も受動的に認識している*6。その状況を相手にも共有してもらいたいという願望を表しているのだ。それに対して、英語の“I love you”では、「私(I)」という主体からの「あなた(you)」という客体への「好きだ(love)」という感情の能動的な働きかけが表現されている。「愛」という感情を相手と共有しようという願望ではなく、「好きだ」という自分の感情を相手に受け入れてもらいたいという願望が表現されているのだ。何か小難しくてよく分からないと言われそうだが、その違いは日本と米国の恋愛映画の典型的なクライマックス・シーンを思い浮かべてみれば分かりやすいという。すなわち、日本の恋愛映画のクライマックスでは、愛する二人が同じ方向、例えば浜辺に立って沈む夕日を眺めているというような光景で終わりになるが、ハリウッド映画では、お互いに見つめ合って、次の瞬間、燃えるようなキスを交わし、そこで「The End」という文字がスクリ-ンに現れるというのだ。日本語での意思疎通の相手が人間に限らないことは、実は、日本人が虫の音を虫の「声」として聴くことに現れている。ちょっと意外だが、西欧人には秋の草むらの虫の音は雑音としてしか聞こえないという。西欧人にとって、虫は意思疎通を図る相手ではないからだ。英語には日本語の「虫」にうまく当てはまる言虫の音を虫の「声」として聴く日本人金谷教授によれば、このように相手と感情を共有しようという構造を持つ日本語を学ぶと人格が柔らかくなるという。そのような日本語は地球を救える力を持っているのだという。それだけの力を持っているかはさておき、日本語の相手と感情を共有しようという構造はどこからきているのだろうか。私は、それは日本語が自分だけでなく多くの相手がいるという「世間」の中で、互いに意思疎通を図る言語として発達してきたからだと考えている。そして、この「世間」で意思疎通を図る相手は、日本語の場合は人間に限らない。動植物や自然、さらには道具の類も意思疎通を図る相手になっている。そんなことをいうと驚かれそうだが、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪は、一反木綿にしても塗り壁にしても、元々は道具や建物だったのだ。それが人間と意思疎通するようになっている。

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