富士山本宮浅間大社木材の供給地や製品の消費地への近接などを背景に、明治期以降の近代製紙産業が集積し、全国有数の「紙のまち」として発展してきました。特に、衛生用紙(トイレットペーパー、ティッシュなどの家庭紙)については、国内屈指のシェアを誇っています。この地域は、戦後から高度成長期にかけては化学工業や輸送用機械等の工場の進出が相次ぎ、バランスの良い産業構成となっていますが、製紙関連産業が基幹産業の1つとなっています。社伝によると、紀元前27年、垂仁天皇が富士山の噴火を鎮めるために「浅間大神(木花之佐久夜毘売命)」を富士山麓に祀ったことが起源とされています。その後、大同元(806)年に平城天皇の命を受けた坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を建立しました。境内には、富士山の神水が湧き出す「湧玉池」があり、道者は湧玉池で身を清めてから富士登山をすることが習わしとなっていました。浅間造りと称される二階建ての本殿は、他に例を見ない構造で国の重要文化財に指定されています。浅間大社の御神木は桜であり、境内は春になると約500本の桜が美しく咲き誇ります。富士山本宮浅間大社富士山本宮浅間大社は、富士山を御神体とし富士山信仰の広がりとともに全国各地に祀られた総数約1,300を数える浅間神社の総本宮で、世界文化遺産の構成資産に登録されています。今では、富士講は衰退しましたが、世界文化遺産の構成資産に登録されたことで富士講の聖地巡礼の場として広く知られています。滝の高さは約20m、幅は約150mで滝の周辺の地質は上部に割れ目が多く水を通しやすい地層(新富士火山白糸溶岩流)があり、下部には水を通しにくい古富士泥流があるため、この溶岩流から水が幾筋も流れ出て滝を作っています。古くより景勝地として知られ、源頼朝が富士の巻狩りの際、白糸の滝の上にある水が湧き出る岩窟で髪のほつれを直したと伝わる「お鬢水」や曽我兄弟が仇討ちの密談をしていた時に滝の轟音で話が聞き取れず神に念じたら滝の音が止んだという「音止の滝」の伝承があります。昭和11(1936)年には国指定の名勝及び天然記念物として「白糸ノ滝」周辺地が指定されています。日代上人は、日蓮上人の高弟で六老僧の1人に数えられた日興上人の高弟で、日興死後は北山本門寺の貫主を務めていましたが領主である石川実忠や宗徒達と人穴富士講遺跡人穴は、新富士火山の溶岩流の末端にできた総延長83.3m、高さは最高6mの溶岩洞穴で、建仁3(1203)年に源頼家が富士の巻狩りの際に、仁田忠常に人穴を探索させたとされています。その後、富士講の祖、長谷川角行が戦国時代末から江戸時代の初期にかけて修行し、富士講の聖地巡礼の場となりました。人穴の上には、大日堂の建物が建てられ、富士講道者の世話が行われました。白糸の滝白糸の滝は、長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った場所として知られ、世界文化遺産の構成資産に登録されています。西山本門寺西山本門寺は、富士宮市西山に境内を構えている法華宗興門流の寺院で、創建は康永2(1343)年、日代上人が開いたのが始まりと伝えられています。 94 ファイナンス 2024 Feb.
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