図4 ドブ板通り(出所)令和5年12月30日に筆者撮影階建の建物を増築し、昭和12年(1937)には既存店の北隣に5階建の店舗を新築した。戦後は昭和28年(1953)に鉄筋コンクリート造5階建の百貨店店舗に建て替えた。その後も増築を重ね、平成2年(1990)には本館の東側に新館と南館を新設。改装前の2倍を超える大規模店となった。京浜急行の開通と駅前の発展昭和40年(1965)の最高路線価地点は「若松町2丁目川西陶器店前通り」だった。川西陶器店は京浜急行横須賀中央駅の駅前にあった。なお若松町は福島の会津若松と関係がある。幕末、江戸湾警備を命じられた会津藩は観音崎や三崎に台場や陣屋を築いたが、そのうち観音崎の鴨居陣屋にかかる業務を請け負った業者が若松屋を称した。若松屋が埋め立てた場所なので「若松町」となった。若松屋は浦賀銀行の設立にも関わり、当主高橋勝かつ七しちは関東銀行の初代頭取を務めた。横須賀の場合、旭町に対する引力となった駅は京浜急行の横須賀中央駅である。横須賀中央駅は昭和5年(1930)4月に湘南電気鉄道の駅として開業した。鉄道が発起されたのは大正6年(1917)だったが、後の準備期間中に関東大震災が起き、敷設どころか会社設立も危うくなってきた。そこで安田財閥の持ち株会社である安田保善社の出資を受け入れることになり、会社設立に漕ぎつけたのは大正14年(1925)12月である。経営のてこ入れに安田保善社は京浜電気鉄道の役員を湘南電気鉄道に派遣した。当時高輪駅~横浜駅間を結ぶ京浜電気鉄道の大株主だった背景がある。出資受け入れから5年後、黄金町駅~浦賀駅の本線と、金沢八景駅から分岐する逗子線が開通した。翌年の昭和6年(1931)、京浜電気鉄道の南端の横浜駅と湘南電気鉄道の北端の黄金町駅が接続し、昭和8年(1933)4月には品川駅~浦賀駅で相互直通運転が始まった。昭和16年(1941)11月、湘南電気鉄道は京浜電気鉄道と合併。戦時中、東急に合併されたが、昭和23年(1948)に再び分離して京浜急行電鉄が発足した。震災復興の区画整理、京浜急行の開通を背景に、大瀧町や若松町が戦後の商業中心地となった。昭和34年(1959)に三笠ビルが竣工する。大瀧町の街道の両側にあった商店街が共同で南北180mの細長いビルを建てた。全国各地で整備が進んだ防火建築帯(共同ビル)のはしりである。昭和41年(1966)の丸井を皮切りにチェーン店の進出も始まり、昭和45年(1970)、市内3例目の共同ビル「あづまビル」に西友が開店。その2年後、増築した「センターヨコスカ」に緑屋が出店した。昭和50年(1975)、「横須賀中央合同ビル」に丸井の2店目が開店して本館となり既存店は別館となった。ふりかえると、横須賀の中心商業の発展は三笠ビルに端を発する共同ビル化の歴史と重なる。横須賀市の指定金融機関は昭和39年(1964)以来、横浜銀行、スルガ銀行、りそな銀行が1年交代で務めている。要するに市のメインバンクはこの3行だ。このうちりそな銀行(当時は協和銀行)と横浜銀行の横須賀支店は元々旭町で隣同士にあったが、それぞれ昭和40年(1965)、昭和50年(1975)に駅前に移ってきた。横浜銀行横須賀支店の移転先には同行若松町支店があった。同店の歴史をひもとくと明治43年(1910)に進出した南総銀行(本店木更津)に遡る。上総、千葉合同から千葉銀行へと変遷し、昭和19年(1944)に横浜興信銀行に営業譲渡された。このとき同行大滝町支店(元の鎌倉銀行)も合流して若松町支店となる。旧若松町支店の店舗が前述の横須賀中央合同ビルに建て替えられたのを機に吸収され、新しいビルに横浜銀行(新)横須賀支店が入った。沼津が本店で神奈川県西部にも地盤を広げるスルガ銀行は、大正7年(1918)に横須賀に進出したときから駅前にあった。駿河銀行と称していた時代、鎌倉に本店を構え横須賀に支店があった日本実業銀行を買収する形で進出を果たす。現在、横須賀市の最高路線価地点は駅前で変わらない。その一方で市街地の風景は変わっている。平成9年(1997)、駅の西側に「横須賀モアーズシティ」が 78 ファイナンス 2024 Feb.
元のページ ../index.html#82