ファイナンス 2024年2月号 No.699
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〒 市役所鎌倉跡共栄跡りそなファイナンス 2024 Feb. 77旧海軍工廠元町旭町汽船発着場跡さいか屋本店旧緑屋WALK図3 市街図(出所)筆者作成。図中の傾斜量図は地理院地図から貼付。町名は住居表示以前のもの商業跡三井↓第2跡震災前の道同・水面第2↓横浜跡さいか屋→不動跡小川町藤沢↓共信跡山王町関東跡さいか屋跡鎌倉跡旧千葉横浜スルガ昭和19年(1944)に久里浜駅に延伸されるまで横須賀駅は終着駅だった。神奈川県統計書で、明治20年(1887)末現在、横須賀で最も地価が高い宅地は大おお瀧だき町ちょうだった。幕末、外国人遊参所を開くため東岸の崖を削って造成した埋立地で最も山側の、今は三笠ビルの通路になっている道がメインストリートだった。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書には最も賃貸価格が高い場所として山王町、旭町とあった。旭町は海軍工廠の東門(正門)の前にある。この界隈が関東大震災前の業務・商業の中心地で、多数の銀行や百貨店が創業あるいは進出の地に選んでいる。それに対して横須賀駅や、現在の中心地である京浜急行横須賀中央駅の界隈は街外れと認識されていた。さて、横須賀初の銀行は小野家にゆかりがあった三井銀行の支店である。開店は明治9年(1876)。明治36年(1903)に撤退し第二銀行が引き継いだ。第二銀行は明治2年(1869)の横浜為替会社をルーツとする県内最古の銀行だった。関東大震災で被災し1筋南に移転。その後取り付け騒ぎが起きたことから昭和3年(1928)に横浜興信銀行が営業を引き継いだ。後の横浜銀行である。次に開店したのは明治29年(1896)の藤沢銀行横須賀支店である。相模共栄銀行(本店藤沢)、浦賀銀行と合併し、明治43年(1910)に関東銀行となった。同行の横須賀支店は現在の横須賀三浦信用金庫の場所にあった。湘南から三浦半島一帯の有力行だったが、震災の煽りで大正13年(1924)に取り付け騒ぎが起きる。横浜興信銀行が始末を引き受けて関東興信銀行を設立し、昭和7年(1932)には自行に合併した。明治32年(1899)、鎌倉銀行が旭町の隣の元町に支店を出した。昭和2年(1927)に大瀧町に店舗を新築する。昭和16年(1941)、国策だった一県一行主義によって他5行とともに横浜興信銀行に合流し、大滝町の店舗は横浜興信銀行大滝町支店になった。横須賀発祥の銀行は明治39年(1906)開業の横須賀商業銀行である。本店は元町にあった。大正10年(1921)、川崎共立銀行との合併を機に小川町へ移転。共信銀行に改称したが大正14年(1925)に取り付け騒ぎを起こし昭和5年(1930)に廃業した。東京に本店を構える全国銀行も旭町にあった。大正3年(1914)進出の不動貯金銀行だ。昭和23年(1948)に協和銀行、再編で現在はりそな銀行である。震災を機に大滝町に移転した百貨店地元百貨店「さいか屋」も旭町にあった。戦国時代の鉄砲集団で知られる雑さいか賀衆の末裔の岡本傅兵衛が明治5年(1872)10月に立ち上げた雑賀屋呉服店をルーツとする。明治11年(1878)には自前の店舗を元町に構えた。大正6年(1917)には同じ場所で2階建の洋館を新築。横須賀初の百貨店だったが、海軍工廠の拡張に伴い立ち退きを求められ、旭町に移転することになった。大正9年(1920)に改めて開店したが、今度は3年後の震災で全焼してしまう。横須賀の街は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅、図3でもわかるように復興で大瀧町から南の区画が大きく変わった。さいか屋は、道路が拡幅された大瀧町での再建を選ぶ。昭和3年(1928)に3階建の百貨店を新築した。昭和9年(1934)、鉄筋コンクリート造4⛩⛩⛩⛩

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