第48回 「神奈川県横須賀市」第48回 「神奈川県横須賀市」4図1 広域図図2 ヴェルニー公園から見た1〜3号ドック在日米海軍海上自衛隊(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成(出所)令和6年1月21日に筆者撮影275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D320D1,090C320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D幕府が遺した産業遺産「横須賀造船所」横須賀の近代史は造船所で始まる。慶応元年(1865)4が起工した。軍備国産化を目年11月、横須賀製鉄所4指し洋行帰りの幕臣小栗上野介忠ただ順まさの起案で整備された造船所である。幕府は駐日フランス公使レオン・ロッシュに技術支援を依頼した。整備を請け負い現場で指揮を執ったのは28歳の若き技術者レオンス・ヴェルニーだった。当初「製鉄所」としていたのは、兵器工場を意味するフランス語、Aアルスナルrsenalを「製鉄所」と訳したからである。6基あるドックのうち1号ドックは慶応3年(1867)3月に起工し、明治4年(1871)1月に竣工した。竣工時は徳川政権、フランス第二帝政ともに瓦解していた。横須賀製鉄所は明治政府に接収され、工部省の管轄となった。1号ドックの完成後、4月からは実態に合わせて横須賀造船所となり、翌年、海軍省に移管された。明治17年(1884)、隣接地に鎮守府が設置されると横須賀造船所はその附属工場となる。明治36年(1903)に横須賀海軍工廠となったが、このときは3号ドックが完成し、4号を建設中だった。終戦後は米軍に接収され、一帯は米海軍第7艦隊の横須賀基地となった。正式名称は横須賀海軍施設である。石造ドックとしてはわが国初の1号ドックも現存し、主に所属艦艇の修理工場として使われている。第7艦隊は米海軍の海外拠点では最大規模で、指揮艦ブルーリッジ、航空母艦ロナルド・レーガンの他、第7艦隊所に所属する10の巡洋・駆逐艦は横須賀を事実上の母港としている(令和6年1月26日現在)。図1でもわかるように立地や施設の面では米海軍第7艦隊が旧帝国海軍を継承しており、かつての鎮守府庁舎は米海軍司令部庁舎として使われている。組織として継承する海上自衛隊横須賀地方隊は陸地側に点在している。業務中心地だった旭町界隈横須賀市の市制施行は明治40年(1907)で県内では横浜市に次いで早かった。横須賀鎮守府・海軍工廠の門前町として早くから発展していたことがうかがえる。明治22年(1889)年6月、東海道線の大船駅から枝分かれする形で横須賀線が開通した。言うまでもなく横須賀造船所への接続が主な使命だ。今でこそ途中駅だが、造船所が遺したまちづくりのレガシー造船所が遺したまちづくりのレガシー 76 ファイナンス 2024 Feb.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史
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