ファイナンス 2024年1月号 No.698
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ファイナンス 2024 Jan. 72 (復元南門(CG))(鳥居と202段の石段)*3) 平成10年に国の重要文化財(古文書)に指定された多賀城碑(高さ248cm、最大幅103cmの石碑)には140の文字が彫られており、多賀城が神亀元年(724年)に完成したことが記されている。日本全国に68か所あったとされる国府のなかで唯一創建年が明らかな国府である。多賀城には奈良時代から平安時代にかけて陸奥国の国府(統治機能を持った行政組織)や鎮守府(兵士の駐屯や監督など軍政を司る組織)が置かれました。多賀城跡(政庁跡)は奈良県の平城宮跡、福岡県の太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられています。市域の1/4が遺跡になっているなど、古代の多賀城は東北の政治、軍事、文化の拠点でした。国府には国の長官である守(かみ)を筆頭に、介(すけ。守の補佐)、大目(だいさかん)・小目(しょうさかん。作成した文書を審査)、史生(ししょう。文書の整理など)等、多くの役人がいましたが、このような役職の人たちは都から派遣されていました。こうした役人以外にも国の運営のために多くの人々が働いていましたが、文書を作ることに関係する役割が多かったそうです。古の時代から役所にとって文書が重要なものであることを示していると言えるでしょう。鎮守府には各地から多くの人や武器、物資が集められ、政庁の警備や中央政権に従わない異民族の討伐にあたりました。陸奥国の鎮守府には他の国よりもかなり多くの兵団が配備されていたという説もあります。鎮守府の長官は鎮守府将軍を任命され、そのほとんどが陸奥守との兼任だったようです。多賀城は神亀(じんき)元年(724年)*3、大野東人(おおののあずまひと)という武人により創建されましたが、東人は後に鎮守府将軍として多賀城を拠点に活躍しました。なお、この原稿が皆さんの目に触れる令和6年(2024年)は、多賀城創建から1300年という記念すべき年にあたり、復元された多賀城の正門である南門の公開なども予定されています。東人以降の鎮守府将軍には、万葉集に最も多くの歌を残した歌人、大伴家持(おおとものやかもち)や、180cmの長身で黄金のあご髭を持ち、怒れば猛獣も倒れると言われた猛将、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)などがいます。当支署の塩釜事務所は塩釜市内の合同庁舎に入居しています。塩釜は古くから塩釜神社の門前町として、また、世界三大漁場の一つ「三陸沖漁場」を抱える塩釜港を有する港町として栄えました。〇塩■神社塩釜神社は陸奥国一之宮、主祭神は塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)で、この地に製塩の技術を授けたと伝えられています。創建の正確な年代は明らかではありませんが、平安時代初期の文献にはその名前が確認されており、1200年以上の歴史があります。先にご紹介した多賀城の北東の方角(鬼門)に位置していることから、古代多賀城の鬼門除けの役割を担っていたのかもしれません。本殿などの建物は国の重要文化(2)門前町 塩■仙台市

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