ファイナンス 2024年1月号 No.698
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ファイナンス 2024 Jan. 56 プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)成したのが昭和46年(1971)6月、47階建の京王プラザホテルだった。最高路線価地点が新宿駅前に移ったのはその翌年である。ビル街の建設は東京都庁が竣工した平成3年(1991)まで続く。沈殿・ろ過用のプールの底に造成した街で、3×3のマス目内は地表面に対し1階分低い。図3でいえば前方の左右に横切る道路が新宿駅と同じ標高となる。東西軸と南北軸が立体交差しており街区内は横断歩道なしで徒歩移動できるが、階段の上り下りは多い。昭和47年の最高路線価地点の移転の意味は新宿エリア内にとどまらない。銀座を抜き、新宿が東京都ひいては全国の最高路線価となったからだ。統計書を元に東京の最高地価をふりかえると明治15年(1882)で最も地価が高い場所は「安針町」だった。日本橋魚河岸の後ろ側である。大正9年(1920)の統計書には三越本店が店を構える「室町一丁目」とある。大正15年(1926)から日本橋の南詰の「通一丁目」、昭和4年(1929)に銀座四丁目交差点の南側「銀座五丁目」に移った。舟運と街道が交わる日本橋周辺から、鉄道の時代を反映し駅前に街の中心が移ってきたことが窺える。東京駅の開業は大正3年(1914)だが、それまでの東海道線の起点である新橋駅の駅前、すなわち銀座界隈が栄えていた。戦後も「銀座5丁目三愛前銀座中央通り」が最も高い路線価だった。昭和57年(1982)に奪還されるものの、昭和47年から9年間は新宿が東京で最も高い路線価だった。地方都市では、元々郊外立地だった駅前が街道・河川沿いの伝統的な中心地から最高路線価地点の座を奪取するケースが多かった。求心力を高めた要因は交通手段の変化と新しい街への再開発である。経緯を踏まえれば銀座より新宿のほうが性質的には「駅前」に近い。新宿グランドターミナル構想平成に入り再開発の舞台は新宿南口に移る。平成8年(1996)、新宿貨物駅の跡地に高島屋を核店舗とするタカシマヤタイムズスクエアが完成。2年後、小田急線の線路上の人工地盤にホテルや商業施設が散在する新宿サザンテラスができた。平成28年(2016)にはわが国最大のバスターミナル、通称「バスタ新宿」が開業した。周辺に分散していた19か所の高速バス乗り場が駅直結のターミナルに集約された。隣接して32階建の「JR新宿ミライナタワー」が開業。低層階はルミネ新業態のNEWoMan新宿となった。戦前、新宿の市街地は駅の東側にあった。新宿三丁目交差点の東側、末廣亭界隈から二丁目にかけての宿駅時代以来の街も、店や業態は変わったが繁華街の一角を占めている。戦後は駅を中心に北、西そして南側の順で新しい街が開発された。東西南北の街はそれぞれ独立しており別の顔を持ち、バラエティ豊かな街の特長を示している。一方、これは新宿の課題でもある。新宿駅による街の分断を意味するからだ。「新宿ダンジョン」とも呼ばれる新宿駅を迷わずに通過するのは至難の業だ。アメーバ状に広がる地下街では方角がわかりにくい上、アップダウンが多く高齢者には不便だ。そこで平成29年(2017)、「新宿の新たなまちづくり」が東京都および新宿区から公表された。2040年代を見据えたコンセプトが「車中心のまちから人中心のまちへ」と「多様な都市機能が近接し、連携するまち」である。街の形成史と関わりが深い官民連携の視点も盛り込まれている。具体策の1つが「新宿グランドターミナル構想」だ。新宿駅を、鉄道会社の違いを越え、駅前広場や駅ビルが有機的に一体化した次世代ターミナルと再定義。さらに西の新宿公園から東の新宿御苑に至る東西骨格軸を定めた。その上でグランドターミナル化した新宿駅を要に、東西骨格軸をもって、東西南北に分散した新宿の街を人の視点で再統合するのが構想の目玉だ。その鏑矢が、約8年という歳月を経て令和2年7月に開通した東西自由通路である。今後、南口にあるようなテラスとデッキが新宿駅を囲むように東口側と西口側にでき、駅上広場(新宿セントラルプラザ)を介して東西南北に横断できるようになる。そして東西自由通路につづく西新宿の中央通りと東口の新宿通りが歩行者仕様の道になる見通しだ。歩車分離による共存を目指した西口広場はより歩行者に重きを置いた空間になる。

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