ファイナンス 2024年1月号 No.698
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図3 西新宿の風景(出所)令和5年12月16日筆者撮影36年(1961)の最高路線価地点は「新宿3丁目タカノ洋装店」である。新宿通りに面するタカノ洋装店は伊勢丹の向かい側にあった。新宿三丁目の商業を長年リードしてきたのが三越と伊勢丹である。新宿三越は平成24年(2012)に撤退したが、伊勢丹本店は一貫して地域一番店の座を保ちいまや全国でも売上首位である。戦後に進出した勢力としては昭和30年(1955)、伊勢丹の北側に出店した「新宿丸物」があった。京都に本拠を構える百貨店だったが、昭和41年(1966)に伊勢丹に買収された。現在の伊勢丹メンズ館である。昭和23年(1948)に初出店以降スクラップアンドビルドを繰り返してきた丸井もある。現在は新宿に3店あり、昭和49年(1974)出店のニュー新宿店を起源とする新宿マルイ本館が基幹店だ。昭和47年(1972)、最高路線価地点が駅前の「角筈1丁目高野果実店前新宿通り」に移った。高野果実店はタカノフルーツパーラーとして知られている。社名を「新宿高野」といい中村屋、紀伊國屋書店と並び新宿御三家とも称される老舗だ。新宿駅が開業した明治18年(1885)、初代髙野吉きちたろう太郎が新宿駅前に立ち上げた「高野商店」が源流である。この時点では繭仲買・中古道具を扱っており、明治33年(1900)に本業とするまで果実は副業の扱いだった。大正10年(1921)、現在地に移転しフルーツパーラーを始めた。その隣には中村屋がある。元々は本郷のパン店で、明治42年(1909)に新宿に本店を移した。大正4年(1915)末、インドの独立運動家、ラス・ビハリ・ボースを約3か月半かくまった。その縁で創業夫妻の長女の相馬俊子とボースが恋に落ち結婚。昭和2年(1927)に中村屋が喫茶部を新設するにあたって娘婿のボースが提案した新メニューが今に伝わる「純印度式カリー」だ。プール底を活かした未来都市・西新宿次に姿を現したのは駅西側である。昭和41年(1966)、新宿駅西口広場が竣工した。来るべき車社会を想定した地上部と、歩行者が行き交う地下広場がある。天井が開いた地下広場の中央にはインターチェンジ状の乗降場がある。乗降場の南北には地下街「小田急エース」が設けられた。翌年には小田急新宿駅ビルが完成。昭和37年(1962)から現ハルク館で営業していた小田急百貨店が本店を移した。西口広場、駅ビルともに小田急電鉄が整備に関わり統一的な景観を実現している。昭和39年(1964)には京王百貨店もオープンしており、この5年程の間に新宿三丁目に劣らぬ商業集積が新宿西口に生まれていた。駅前の発展を示す出来事の1つに駅ビルの開業がある。昭和39年(1964)、新宿ステーションビルが竣工した。民間が出資して店舗を併設した国鉄「民衆駅」で、後の「マイシティ」、現在の「ルミネエスト」である。もっとも、駅前の求心力が高まった要因としては新宿駅の外縁で進んだ再開発の影響が大きい。戦後早々に始まったのが駅北側の歌舞伎町である。「歌舞伎町」という地名は、「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」構想があったことにちなむ(鈴木喜兵衛「歌舞伎町」(1955)に寄せた元東京都建設局長石川栄ひで耀あきの序文)。昭和23年(1948)に路面電車のルートが靖国通りに移転、後に西武新宿駅も開業し各々最寄り駅となった。昭和25年(1950)、造成が一段落した歌舞伎町で東京産業文化博覧会が開催される。閉会以降、西側は広場を中心に映画観や劇場を囲む街となった。広場の西端にあったパビリオンの1つ産業館は東京スケートリンクに改修され、後にミラノ座が建った。現在は48階建の東急歌舞伎町タワーが建つ場所だ。東端にはコマ劇場が建てられたが平成23年(2011)に解体され現在は30階建の新宿東宝ビルになっている。当初目指した山の手家庭向けの教養娯楽センターとは異なるが、歌舞伎町は清濁併せ呑む有数の歓楽街となった。昭和40年(1965)に廃止された淀橋浄水場の跡地では高層ビル街の造成が始まった。ビル群で最初に完 55 ファイナンス 2024 Jan.

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