ファイナンス 2024年1月号 No.698
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第47回 「東京都新宿区」第47回 「東京都新宿区」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440Dはじまりは新宿二丁目新宿の起源は甲州街道の宿駅「内藤新宿」にさかのぼる。甲州街道の最初の宿駅であり、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿と並び江戸4宿と呼ばれた。元々高井戸宿が最初の宿駅で、内藤新宿は浅草商人の出資で開設された新駅である。開設は元禄12年(1699年)で享保3年(1718年)に一旦廃止、明和9年(1772)に再開した経緯がある。信州高遠藩内藤家の下屋敷に隣接した新しい宿なので内藤新宿という。下屋敷は明治の代に新宿御苑となった。宿場町は新宿御苑の北辺に並行し、四谷大おお木き戸どから新宿追分まで1kmにわたる。四谷大木戸は現在の四谷四丁目交差点にあり、要するにここから西は江戸城下町の外だった。明治に入っても内藤新宿は南豊島郡の内藤新宿町で、東京市に編入され四谷区の一部となったのは大正9年(1920)である。新宿追分は青梅街道と甲州街道の分岐点で、現在の新宿三丁目交差点である。当時は丁字路で南に曲がると甲州街道。東西の直進ルートが青梅街道で現在の新宿通りだった。明治15年(1882)の東京府統計書によれば南豊島郡の最高地価の場所は「内藤新宿二丁目」だった。現在の新宿二丁目と範囲が若干異なるが、かの有名な二丁目仲通りと交差する地点は当時の内藤新宿二丁目に含まれる。ここが新宿の中心地だった。新宿駅の開業は明治18年(1885)3月。経営は上野駅を起点に現在の高崎線に沿って当時は前橋駅まで路線を延ばしていた日本鉄道である。途中の赤羽駅から枝分かれし、当時未開業の池袋駅から現在の山手線のルートを辿って品川駅に至る品川線の駅だった。品川駅で既に開通していた官営鉄道と連絡することで、群馬の養蚕地帯と横浜の生糸輸出港を結ぶ意図があった。既に建物が密集していた都心を迂回するための路線で、要するにバイパス線である。新宿駅というものの住所は内藤新宿町ではなく、その西隣の角つの筈はず村だった。開駅4年目の明治22年(1889)に淀橋町となる。淀橋町が東京市に編入されるのは内藤新宿町より後の昭和7年(1932)で、他3町と合併して淀橋区となった。淀橋区が四谷区、牛込区と合併して新宿区となったのは昭和22年(1947)である。明治後期といえば明治36年(1903)、新宿通りに路面電車が開通した。半蔵門から甲州街道に沿って敷かれた東京市街鉄道の路線で終点は新宿駅前駅だった。大正4年(1915)、笹塚駅と調布駅の間で開業していた京王電気軌道が新宿追分駅まで延伸。新宿追分駅は新宿三丁目交差点の路上にあった。この頃から郊外住宅地が開発され、新宿駅は都心に向かう乗換拠点の性質を帯びてきた。この動きに拍車をかけたのが大正12年(1923)の関東大震災である。比較的地盤が安定していた東京西郊に人気が集まった。昭和2年(1927)4月、新宿を起点に南多摩、神奈川県央を経由し小田原に至る小田原急行鉄道が開通した。国鉄新宿駅に乗り入れる形で新宿駅が設けられた。同年10月、京王電気軌道は新たに建設した四谷新宿駅に新宿の起点を移す。四谷新宿駅は都営新宿線C1出口新宿追分または新宿三丁目交差点明治43年(1910)の東京府統計書では最高地価の場所が「内藤新宿町三丁目」とある。大正15年(1926)大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では四谷区の最高が新宿三丁目となっていた。明治後期から大正にかけて街の中心が新宿駅に向かって動いたことが窺える。この時点で街の中心は新宿追分だった。バイパス駅前が東京の中心になるまでバイパス駅前が東京の中心になるまで 53 ファイナンス 2024 Jan.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史

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