図3 現在の御幸通(みゆき通り商店街)大手前通りに移った。背景には大手前通りの開通と駅前広場の大改造がある。大手前通りは駅と姫路城を結ぶ、幅50mの戦後復興道路で昭和30年(1955)に完成した。景観に配慮して電柱地中化が施され当時にしては画期的な道路だった。電鉄姫路駅は大手前通りに面する場所まで後退し、駅頭に山陽百貨店が建った。昭和34年(1959)、民間の出資で上階に商業フロアを併設した国鉄姫路駅が竣工した。5年後、駅前広場を挟む対面に「姫路観光ビル」(現フェスタ北館)が建つ。市営バスターミナルを階下に擁したこのビルは、同じく神姫バスおよび鉄道のターミナルを併設する山陽百貨店、国鉄姫路駅と地下街を介して連結された。この時点で姫路駅前は様々な公共交通期間が有機的に繋がる一大拠点となっていた。昭和41年(1966)5月にはモノレールが開業する。「姫路大博覧会」会場の手柄山中央公園への旅客輸送を目先の目的として整備された。2駅1.6kmの極めて短い路線で実用面に不安があり、昭和49年(1974)4月に運行休止となった。2核が競った中心商業最高路線価こそ駅前に譲ったが、御幸通の商業軸は健在で中二階町と駅前の2核が競争していた。中二階町の代表が姫路初の百貨店「ヤマトヤシキ」である。前身は、明治39年(1906)4月に中二階町で米田徳次が旗揚げした洋品雑貨店「米田まけん堂」である。相手によって言い値を変える「掛値販売」の慣習が残る中、「定価販売」を貫く決意を「負けん」(安くしない)の屋号で示した。戦後、米田まけん堂を母体に「やまとやしき同志連鎖商店街協同組合」を立ち上げ集合店舗を始めた。その後、昭和32年(1957)には地上8階建の店舗を新築し百貨店経営に乗り出した。対する駅前代表が昭和28年(1953)開店の山陽百貨店である。駅ビルや地下街とともに商業核を形成していた。2核の競争に拍車をかけたのが総合スーパー(GMS)だ。昭和39年(1964)10月にダイエーが駅前に進出した。昭和46年(1971)6月に地元スーパー「フタギ」の後継でもあるジャスコの西館、翌年11月に東館が開店。昭和49年(1974)12月にはダイエーの2店目がヤマトヤシキの隣に出店し新たな姫路店となった。元々商店主だった地元地権者が8階建の姫路センタービルを建設。ダイエーに賃貸し核店舗とした。なお駅前のダイエーは昭和55年(1980)にディスカウント業態のトポスへ転換した。御幸通から生まれた全国チェーン姫路はイオン発祥地の1つである。イオンの前身のジャスコは昭和44年(1969)2月に岡田屋、シロ、フタギの3社で立ち上げた共同仕入会社が源流だが、このうちフタギが姫路出身だ。元々は昭和12年(1937)11月に二木一かず一いちが光こう源げん寺じ前まえ町まちで創業したフタギ洋品店である。戦災で全焼するが戦後に再建。昭和24年(1949)7月にフタギ株式会社となった。翌年、西紺屋町に新店が開店し本店を移した。昭和38年(1963)、同じ場所で本店を建て替え、その後、総合スーパーを目指し生鮮食品など衣料品以外の品目を拡大するとともに多店舗展開を始めた。ジャスコ発足前には兵庫県南部は尼崎から赤穂まで店舗網を拡大していた。ちなみに「ジャスコ」と命名したのは後にジャスコ社長を務めた二木英ひで徳のりの妻、二木栄え海みである。姫路発祥の全国チェーンは他にもある。1つはメガネのパリミキで、昭和5年(1930)に多た根ね良よし尾おが創業した「正確堂時計店」が源流である。戦後、株式会社三城時計店を設立し、昭和35年(1960)にメガネの三城と改称した。みゆき通りにメガネの三城の姫路総本店が営業している。もう1つはベビー用品の西松屋である。昭和31年(1956)10月、大手前通りと中二階町の交差点にある呉服店「着物の西松屋」ののれん分けで開業した「赤ちゃんの西松屋」が源流で、呉服店の2軒隣に発祥地の表示がある。創業者は名誉会長の茂も理り佳よし弘ひろとその母の茂理満みつ。昭和40年(1965) 54 ファイナンス 2023 Dec.
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