跡↓ →飾磨津大手前通り中国跡フタギ跡中之門筋福中橋博労町米田町船場川図2 市街図(出所)筆者作成旧34坂元町商業跡姫路跡福中町モノレール跡飾磨駅三宮方面街道筋水路跡中堀跡ファイナンス 2023 Dec. 53卍卍岡山←龍野町博融↓姫路跡西西国国街街道道外堀跡中之門姫姫路路城城34→三和跡本町西松屋跡ダイエー俵町ヤマトヤシキ跡勧銀跡→みずほ姫路跡→三菱UFJ旧不動→協和メガネ三城旧三和直養町山陽百貨店電鉄姫路駅跡バスターミナル城南練兵場跡御御幸幸通通内堀綿町二階町38跡→三井住友呉服町西松屋紺屋町亀井町ジャスコ跡光源寺前町ダイエー跡高架化前の姫路駅跡治22年(1889)に市制が布かれ姫路市が発足したとき姫路駅の住所は国こく衙が村むらで、名実ともに姫路市外だった。明治36年(1903)、姫路駅と練兵場を結ぶ線上に「御幸通」が開通した。現在のみゆき通りアーケード街である。明治天皇が陸軍特別大演習の観兵式に行幸するために整備されたことが名称の由来だ。ほどなくして、駅前通りとなった御幸通が中之門筋に代わる南北軸のメインストリートになった。最高地価の場所が西国街道に沿って東に移動し明治43年(1910)に中なか二に階かい町まちとなった。二階町は俵町の隣町で、西二階町、中二階町、東二階町の3つに分かれる。このうち御幸通と交差するのが中二階町だ。そのうち銀行も御幸通に移ってきた。地元最大手の三十八銀行は大正15年(1926)に現在の三井住友銀行姫路支店の場所に移転した。昭和3年(1928)に姫路銀行(2代目)に改名した姫路商業銀行は、昭和6年(1931)に本店を西にし紺こん屋や町まちに移している。現在の三菱UFJ銀行の場所である。三十八銀行、姫路銀行は昭和11年(1936)12月に他の県内5行と合併して神戸銀行となった。本店は神戸に移転し、旧三十八銀行の本店は神戸銀行の姫路支店となった。御幸通には県外行の支店もあった。明治43年(1910)に不動貯金銀行が出店。戦後の協和、現在のりそな銀行である。兵庫県農工銀行は昭和4年(1929)に本町から西紺屋町に移転した。昭和12年(1937)に日本勧業銀行になり、金融再編を経て現在のみずほ銀行になった。岡山市に本店を構える中国銀行の姫路支店は亀井町にあった。元々は姫路倉庫銀行の姫路駅前支店だったが昭和2年(1927)に中国銀行の前身の第一合同銀行に買収された。中国銀行姫路支店になったのは昭和5年(1930)である。三十四銀行の進出は大正6年(1917)で当初は坂元町にあった。当時の行舎が現存する。昭和5年(1930)には錦町の御幸通に面する場所に移転し、昭和8年(1933)に鴻池銀行、山口銀行と合併して三和銀行になった。三菱UFJ銀行の前身行の1つである。昭和37年(1962)、最高路線価が御幸通の1筋西の御幸通の駅前から大手前通りへ戦後、最高地価が駅前に移った。昭和31年(1956)の路線価図によれば最高路線価は御幸通のうち駅に近い所にあった。山陽電気鉄道の開業も駅の吸引力を高めたと思われる。大正12年(1923)8月、外堀跡に沿って敷設した路線が御幸通に突き当たる形で「姫路駅前駅」が開業した。当時は前身の神戸姫路電気鉄道の駅で、当時の終点は明石駅だった。昭和2年(1927)に電力会社の宇治川電気が兵庫電気軌道と神戸姫路電気鉄道を買収。兵庫電気軌道は兵庫駅と明石駅を結んでおり、この2社の買収を機に姫路駅前駅と兵庫駅の直通運転が始まった。昭和8年(1933)、宇治川電気から分離して山陽電気鉄道が発足した。これに伴い姫路駅前駅が電鉄姫路駅となる。⛩⛩
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