ファイナンス 2023年12月号 No.697
56/82

第46回 「兵庫県姫路市」第46回 「兵庫県姫路市」駅前大通を車両通行禁止にした歩ウォーカブルシティく街駅前大通を車両通行禁止にした275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D姫路駅を降りると、駅の正面に伸びる大手前通りの向こうに姫路城が見える。慶長14年(1609)に建てられた姫路のシンボルは、白鷺が羽を広げた姿になぞらえて「白鷺城」と呼ばれる。昭和26年(1951)に国宝に指定され、平成5年(1993)には奈良斑鳩の法隆寺とともにわが国初の世界文化遺産に登録された。図1 姫路城(出所)写真はすべて令和5年11月4日に筆者撮影船場には姫路で初めて開業した銀行があった。明治10年(1877)に免許を受け、翌年11月に西国街道船場と西国街道姫路は金沢や小田原と同じように、街全体が城の外堀で囲まれた惣そう構がまえの城下町である。城を中心に内堀、中堀、外堀の三重に囲まれていたが、現存するのは城址公園内の内堀で、中堀、外堀は大部分が埋め立てられた。城下町を西国街道が東西に貫いている。これを横軸とすると城下町の縦軸は城の正門の中之門に至る中之門筋である。城下町の西辺には船場川の流路がある。これを4kmほど下った河口に飾しか磨ま津づ、今の姫路港があった。飾磨津は姫路城下町の外港で、ここから瀬戸内海運に乗り換えられた。陸路の西国街道と水路の船場川が交差する地点が物流拠点で、「船場」と呼ばれた川の西側が後背地として賑わった。沿いの龍野町で開店した第三十八国立銀行である。国立銀行制度の満了後は三十八銀行となった。もっとも本店が船場にあった期間は短く、開店の2年後には川の東側の本町、明治23年(1890)に呉服町に移った。現在の三井住友銀行に連なる戦後の都市銀行の1つに神戸銀行があるが、神戸銀行の源流でもっとも古いものが三十八銀行である。開業早々に神戸支店、大阪出張所を開設し、昭和11年(1936)に神戸銀行が発足する前まで兵庫県南部に拠点網を広げていった。現在の指定金融機関にあたる金庫業務を神戸市、姫路市、兵庫県で受託する県下の有力行だった。俵町には姫路で2番目に開業した姫路銀行(初代)があった。明治16年(1883)5月の設立で、大正6年(1917)に三十八銀行に合流し同行の姫路西支店になる。福中町には姫路商業銀行の本店があった。こちらは明治29年(1896)に地元商工業者の出資で設立された。福中町の西端が船場川だが、かつて橋のたもとに道路元標があり姫路市の起点となっていた。姫路駅が開業したのは明治21年(1888)12月である。当時は山陽鉄道の駅だった。資金難だった官営鉄道は神戸駅が終点で、そこから西は民営の山陽鉄道が路線を延ばしていた。今でいう民間資金によるインフラ開発である。姫路駅は外堀のさらに外側にあった。惣構えの姫路にとっては城下町の外側を意味する。明俵町・福中町から御幸通の中二階町へ兵庫県統計書によれば、明治17年(1884)の宅地の最高地価の場所は俵たわら町まちだった。明治22年(1889)以降は福ふく中なか町まちである。俵町、福中町ともに西国街道沿いの町で、中なか之の門もん筋と船場川の間にある。地価の水準から両町が当時の街の中心だったと推察される。 52 ファイナンス 2023 Dec.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史

元のページ  ../index.html#56

このブックを見る