ファイナンス 2023年12月号 No.697
48/82

家康公の孫娘和子が入内した後水尾上皇が比叡山の麓に築いた広大な修学院離宮位。後陽成天皇の意向に反し、家康公の働きかけで第三皇子、後水尾天皇が即位したという。慶長二十年(1615)5月に豊臣氏を滅ぼすと、武家諸法度を諸大名に聞かせた10日後7月17日に家康公、将軍秀忠の「両御所二条城に摂家華族をはじめ。公卿殿上人を會せられ。御饗應あり。…公家法令十七条を授け給ふ」と「徳川實紀」は記す。第一条「天子諸芸能事、第一御学問也、…」で始まるこの法度は、武家の官位は幕府の裁量で任命できることとし、公儀との連絡のための「武家伝奏」を関白に次ぐ枢要な役職と位置づけ、僧侶が勅許を得て初めて着られる最高位の紫衣について、幕府の事前了解を要することなどとした。関白も署名したこの法度、「将軍の世紀」は、「何よりも禁中の序列と階級を規定し」、「禁裏の抑圧ではなく、儀礼規則を通した秩序や安定の改革」を趣旨とし、「パクス・トクガワナの安定に貢献した戦略的核心」だという。元和六年(1620)には家康公が生前から画策していたとおり、秀忠の末娘(家康公の孫娘)、和子が御水尾天皇に入内。「徳川實紀」によると、入内のときは「二三日前よりこの御行粧を拝し奉らんとて。二条より内裏までの間に。思ひ思ひに支度し。堀川邊に桟敷をかまへ。あるは門々の蔀格子を引きはなち。…けふを晴れとかざりあへり。洛中の貴賤遠近の道俗。昨日の夕より夜もすがら行つどひ。ここの辻かしこの軒までも衆人群衆せり」という。「一六〇棹におよぶ長櫃などの道具類の行列が先行した。ついで、和子の乗る牛車は女房集の乗る輿を先頭に、前後に騎馬の殿上人、所司代板倉重宗らの武士、輿に乗る関白・大臣らが供をして進んだ。」といい、二人の間に二皇子五皇女をもうける。後水尾天皇は、当初、前号で述べた二条城への行幸など幕府と円満な時期もあったが、法度に反して幕府の了解なしに朝廷が出した紫衣を幕府が無効にするなどでやがて緊張関係に。このような状況の中、譲位の意向を秀忠に拒絶された後水尾天皇は、寛永六年(1629)11月8日、公家を突然呼び出し、7歳の第一皇女興子内親王(家康公のひ孫)を明正天皇として「秀忠に黙って」で譲位して上皇となる。「譲位を突如知らされた多くの公家は、ただただびっくり仰天(驚顛の気色)」したといい、85歳で逝去されるまで以後50年の院政を敷く。その後水尾上皇がパトロンとなって花開いたのが寛永文化。後水尾上皇を中心にして宮廷文化の復興期を迎え、その「活動は朝廷内部にとどまらず、…在位中から上層の京都町衆や僧侶らと連歌や立花などの文化的交流を繰り広げたため、宮廷文化が民間にも享受され…民間社会更には武家社会にも、宮廷文化、すなわち雅の文化への憧れを生むことになった」という。それを代表する絵画の狩野探幽、尾形光琳、工芸の本阿弥光悦などの作品が今日に残る。寛永文化の中心にいた後水尾上皇自身が遺したのは、修学院離宮。京都の離宮としては、京都の南西にある桂離宮が知られるが、修学院離宮は京都の北東、比叡山の麓に造られた「上・中・下の三つの離宮からなり、上離宮背後の山、借景となる山林、それに三つの離宮を結ぶ松並木の道と両側に広がる田畑とで構成。総面積54万5千平方メートルを超える雄大な離宮」が今も残る。「幕府との間に緊張が続いた時代であっただけに、短期間にこれほど大規模な山荘を造営しえたことは一つの驚異でもある」という。桂離宮を「世界に二つなきもの」と激賞した世界的建築家ブルーノタウトはなぜか修学院離宮には手厳しく「奇怪な松の化粧」を美しい日本庭園の「例外」という。広く見せるために遠近法を駆使した桂離宮と異なり、本当に広い。中の離宮の客殿には、「随所にみられる飾り金具には葵の紋が配されており」、徳川家から嫁いだ東福門院(和子)の「背後に控える幕府の権勢が示されているよう」だという。下の離宮から松並木を通り、標高差40m近くも登っていく上離宮は「谷間をせき止め浴龍池と呼ぶ大きな池を中心に据えた回遊式庭園」、「大小の滝に加え水流の早い小川もあり、どこにいても絶えず水の音を聴くことができる」という。夏だと汗だくになりながら登っていくと水の音がひときわすがすがしい。 44 ファイナンス 2023 Dec.

元のページ  ../index.html#48

このブックを見る