ファイナンス 2023 Dec. 43慶長二十年(1615)5月に豊臣を滅ぼし、7月に出された武家諸法度 武家諸法度(archives.go.jp)徳川家康公が遺した…(下)の速度は、急行便で江戸から日光まで17時間、京都まで56時間~60時間、「文久年間(1862年ころ)日本に駐在した英国公使オールコックの『江戸長崎旅行記』によれば、早飛脚による江戸より長崎・函館の所要時間は9日」だったので「幕府は江戸において天下の情報を10日以内に知りえたものと考えられる」という。「徳川實紀」は島原の乱の際、「江戸大阪の工程百三十三里。何ほど急ぐとも往来五日づつ」、「大阪より西國へ達せんに。海上三百六十里。早くても十日はひまどるべし」と記す。水運。江戸への人間の交通はほとんど陸路によるが、物資の輸送には海路を利用。最も重要なのは大阪方面との間の航路。慶長年間に江戸城造築の資材の輸送などから始まり、江戸が大都市になるに伴って種々多様の物資が輸送されるようになったという整備された街道の情景は広重や北斎の「東海道五十三次」などの浮世絵に残り、街道の中には今でも使われているものもあり、その名は今も東海道新幹線として、日本の大動脈の名にも残る。武家の棟梁たる徳川家にとっては、武家の統治が国家運営の柱。慶長二〇年(1615)五月に豊臣氏を滅ぼすと、大名への統制を強め、早速、七月七日「伏見城に諸大名を召て。…武家の法令を仰出さるる旨を傳へ」られた、諸大名は金地院崇傳から十三条の「武家諸法度」を聞かされ、「次に猿楽を催され大小名に見せしめられ。饗應せらる」と徳川實紀にある。家康公が遺したこの法度、第一条で「文武弓馬之道、専可相嗜事…」、第六条で「諸国居城、雖為修補、必可言上、況新儀之構営、堅令停止事…」と定め、第八条で私婚を禁じ、第九条で参勤交代を定める。最後に「国主は政務の器用を選ぶべきの事…」定めたこの条項は「統治者の資格として能力を要求」するもので、一見、当たり前に見えるが、運用次第で恐ろしい条項。違反するとどうなるのかは書いていないこの法度、これに反する大名を取り潰す根拠。豊臣が滅んでから4年、元和五年(1619)、2代秀忠は、秀吉公の子飼い大名、福島正則を「居城廣島に於て。恣に城櫓壁塁を増築し。天下の大禁を犯す」として改易。正則は「大御所世にまします時ならんには、正則申すべきものなきにあらず、当代に向かい奉りて、また何をか申すべき。兎にも角にも、ただ仰せの旨に従ふべし」と言ったという。元和八年(1623)には山形の57万石の「若年にして。みづから國政を沙汰する事あたはず。常に酒色にふけり宴楽を専らにして。家司等是を諫といへども用いざれば」として最上義俊を改易。家光の時代には、謀反の疑いで加藤清正の子、忠正を改易。ルールができると身内にも適用しなければ示しがつかない。大坂夏の陣で大阪城一番乗りの功があった越前67万石の松平忠直(家康公の次男結城秀康の子、秀忠の婿)は「強暴のふるまひ超過し。酒と色にふけり。あけてもくれても近習小姓等を手打ちにし…名ある家人…ども。攻殺さるることたびたびにおよびしとなり」、参勤交代の途中で「関ケ原に二百百余日も逗留して酒食や放鷹にふけ」った翌年、将軍秀忠は「連年の病を理由に」隠居を命じる。社会保障のセーフティーネットもないこの時代、お取りつぶしにあった大名とその家臣は浪人となり、この「武装した失業者集団」の扱いが幕府の重要課題となっていくという。徳川時代となっても豊臣は朝廷に影響力。後陽成天皇は慶長八年(1603)2月、六十二歳の家康公に将軍宣下し、右大臣に任じ、4月には空いた内大臣に十一歳の秀頼を任じ、十年(1605)4月には秀頼を家康公が辞した右大臣に任じ、秀忠が将軍宣下を受け、秀頼の前職たる内大臣に任じる。慶長十六年(1611)、秀頼との「二条城会見」の前日、秀吉公の後押しで即位していた後陽成天皇が退(3)武家諸法度(4)禁中並公家諸法度
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