街道の起点は江戸日本橋。広重,豊国『双筆五十三次 日本橋』,丸久,安政1.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2023-12-02)双筆五十三次 日本橋(双筆五十三次) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)や諸寺院へ出された法度などを制定するためにの必要だったという。「江戸時代は鎖国の時代」というイメージが一般的。しかし、海外との貿易に積極的な姿勢を示し、東南アジア方面との朱印船貿易を盛んにしたのは家康公で、「亡くなるまで身近に置いて親しんだ遺愛品には、舶来品が多い」という。オランダ商船に乗り込んで、マゼラン海峡を越えて日本に来た英国人ウイリアム=アダムス(三浦按針)を関ケ原の合戦直前に大阪城で引見し、長時間にわたり話を聴き、合戦翌年から東南アジア方面の貿易船に渡海朱印状が例年のように発行されたという。家康公が南方との貿易で個人的に求めたものは香木と鉄砲・火薬(塩硝)で、「特に香木への執着はマニアックともいえるほどのこだわり」だったという。ただ、交易はその後、若いころ三河の一向一揆に手を焼いた家康公は切支丹を禁止し、鎖国への道に至り、「華僑に匹敵する」かもしれない海外進出の機会を失った一方、長い平和が続いた大きな理由だという。その功罪のいずれが大きいか、鎖国がなかったら今の日本がどうなっていたのかは分からないが、鎖国はその後の日本に大きな影響を残す。交通網の整備は人流や物流に不可欠のインフラで、全国統治には必須の仕組み。7 仕組み人が変わっても、確立した仕組みは残る。家康公が始めた仕組みはその後、長く存続。経済面でも造幣局のWebsiteによると家康公は「日本ではじめて貨幣制度を統一」したという。江戸幕府は、4代家綱が11歳で、7代家継が3歳で将軍となっても揺るがず。「江戸の発達」は「広大な江戸城は威容を天下に示して諸大名をはばからせただけで、ついに一度も実戦に役立てずに終わった」が、「幕府の頼むところは関東の地勢や譜代大名の配置、さらには諸大名を牽制する諸制度にあった」という。参勤交代と大名の妻子在京制度については既に述べたので、それ以外の主なものについて。陸路。東京都の「江戸の発達」によると、江戸が政治の中心となると共に、陸上の交通路も江戸を中心に整備。慶長九年(1604)には、日本橋を中心に各街道の里程を定め、一理ごとに一里塚を設け、今も板橋区内志村の中山道に一里塚が残る。最も重要なのは、東海道(京都に至る)中山道(碓氷峠・木曾路を経て草津で東海道に合する)甲州道中(甲府に至り、さらに下諏訪で中山道に連絡)日光道中(日光に至る)奥州道中(途中まで日光道中と同じで白川に至る)の五街道。「江戸と江戸城」によると当時の旅行速度は、「東海道の場合…、尾張藩の女性、武女一行が藩命を帯びて名古屋城から江戸市谷の藩邸まで、八九里二一丁(351.82キロメートル)の距離を、八日で旅し」たという。江戸時代の陸上交通の発達を促進した原因は、参勤交代制が最も大きいという。参勤交代で諸大名の往来する道路は定まっていて、「東海道が百五十九家、中山道が三十四家、日光道中が六家、奥州道中が三十七家、甲州道中が三家、水戸街道が二十五家、その他が二家」。これらの大名が年々多数の従者を連れ街道を上下するため設備も整えられたという。東海道には朝鮮・琉球・オランダ等の江戸参府や公家や幕府役人の往来も度々。一般民衆の旅行等もますます多くなり、戦乱等で廃れていた駅伝の制度が江戸時代にまた整備充実されたという。「江戸と江戸城」によると、江戸伝馬役の発した継飛脚(1)交易と鎖国(2)交通網 42 ファイナンス 2023 Dec.
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