ファイナンス 2023 Dec. 41家康公が最後まで完成を気にかけていたが、亡くなるまでに完成が間に合わなかったという「群書治要」。禁中並公家諸法度第一条で天子が身につけなければならない学問の一つとして本書を学習すべき旨を規定(駿河版『群書治要』TOPPANホールディングス株式会社 印刷博物館所蔵)徳川家康公が遺した…(下)六年に江戸城の増築が成るやいなや、観世流、金春雄が駆けつけて家康のための上演を懇望し、翌年、江戸城内で演じ」、「金剛流と宝生流もそれにならい…、四流派が駿河浅間神社において家康の前で共演」。「この時以来、能は徳川幕府の式楽としての役割を担」ったという。公は二条城に諸大名を招いて度々能を張行、「能の伝統を重んじ、能が幕府の式楽となる基を作った」と言われる。「駿府記」でも慶長十六年(1611)10月21日には江戸城「本城南庭に於て、御能十一番あり。少進法印、金春太夫、金剛、宝生などこれをなす」とあり、翌日にはまた十番の能を「大御所の仰せによりて幕下御台所(秀忠夫人浅井氏)御覧あり」。この日は「家族Day」だったのか、人質で在京していた諸大名の母や息女も観たという。豊臣を滅ぼした直後、慶長廿年七月は朔日、7日、8日、17日、21日、22日に能とあり、7日は武家諸法度を17日は禁中並びに公家諸法度を言い渡した後で大名や公家に観せ、22日は「秀吉公北政所」ねねや大名の奥方も見学したという。「能の上演は、特に新年には、国に繁栄と幸福をもたらすと信じられて入念な儀式として行われ」たといい、能の「熟練の役者は…武士と同じに扱われることになった」というが、「将軍たちは…冷酷な批評者でもあり、間違いは勿論、一切の手抜きを許さなかった。祝典の途中で間違ったものには容赦ない処罰が直ちに下され、演技失敗のせいで流刑に処せられたり、極端な場合には切腹を命じられることすらあった」という。寛永三年(1626)、後水尾天皇の二条城行幸の際、能楽が行われ、天皇、大御所秀忠、将軍家光の前で林羅山が作った長すぎる口上を忘れた役者は何とか処罰を免れたというが、御水尾天皇の退位後、上皇の前に演じた役者はその前に将軍家光の前で演じたときと違い、将軍軽視という罪で謹慎を命ぜられたという。明治維新で徳川幕府が崩壊すると、能は新たなパトロンを求めることとなるというが、それはまた別の機会に。徳川記念財団の徳川恒孝理事長によると「公のご興味は『モノ』には殆どなく『人』と『知』にあったことを強く感じ」るといい。「家康公が大切にされたのは、書籍であり…、西洋から入ってきた新しい知見や情報でした」という。学問好きで、学者を重んじ古典籍を愛したという家康公、侍医はその覚書で漢詩や和歌・連歌など文学は苦手で、歴史書を好むと記す。日本の書籍では鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を座右の書とし、「源頼朝を処世の手本」としたという。かつて、書物は原本を読むか、書写して読むしかなく、読める人は限られていた。家康公は活版印刷による書籍を刊行させ、関ケ原合戦前年の慶長四年(1599)からの木版印刷が残り、愛読書『吾妻鏡』も刊行され、「伏見版」と呼ばれる。大坂夏の陣があった元和元年(1615年)には駿府で銅活字で書籍を刊行、翌年、家康公は、唐の太宗が編纂させた政治の参考書『群書治要』(「論語」等から治世の参考となる語を抜粋。禁中並公家諸法度第一条にも天子が身につけなければならない学問の一つとして本書を学習すべき旨を規定。)の刊行を気にかけていたが、その完成前に他界したという。家康公は「学者を優遇し、積極的に自ら学ぶ姿を示し、且つ側近達にも大いに学ばしめ」、「識者の意見に耳を傾け」、「古典籍の蒐集にも力を注ぎ、多くの和漢書を所蔵…、欠本があれば書写して補足することも心掛けてい」たという。慶長七年(1602)には江戸城本丸に文庫を設置し、蒐集した蔵書や金沢文庫の蔵書等が納められ、将軍職を譲った後、駿府城にも文庫を創設。古典籍の蒐集には実利があり、大坂の陣と並行して公家の門外不出の古書を京都の五山各寺の僧侶に筆写させた「慶長御写本」は、「禁中並びに公家諸法度」(3)学問
元のページ ../index.html#45