ファイナンス 2023年12月号 No.697
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能樂圖繪 前編 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)舟弁慶の音声はこちらから聴けます。:船弁慶(一) - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)観世 小次郎 信光[作詞]ほか『船弁慶(一)』,ビクター.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1318013(参照 2023-11-10)ん。これをこそ 家康が身に於て。第一の宝とは存ずるなり」と答えると、「関白いささかはじらふさまにて。かかる宝はわれもほしきものなり」という話が残る。とはいえ、家康公は「当時、武家の間でも盛行した侘茶を『御数寄屋』の接待として公式行事に位置づけ」たという。秀吉公に重用された千利休は、秀吉公のお咎めを受け、悲劇的な最後。利休の死の4日前、最後の茶会の客は家康公だというが、2人の間でどんな話がされたのだろう。利休亡き後、その高弟古田織部が頭角を現す。関ケ原合戦後、徳川将軍家では織部を大名に復し、「慶長十五年に将軍秀忠は織部を招いて台子茶湯の伝授を受け」、「翌年には織部は駿府城で家康の茶頭を勤めた。織部は天下一宗匠とたたえられた」という。「徳川實紀」も「古田織部正重然…千利休宗易が随一の弟子なれば。宗易罪せられて後は。世人重然をもて一世の宗匠と尊敬せり。」と記す。織部も大阪夏の陣の直後に謀反を疑われ、自刃を命ぜられており、最後は悲劇的。「無策の姿にわび茶の精神を求めた」利休と異なり、織部は正反対に「徹底して作為を表に表し、強い主張をその好みに示した」といい、関ケ原の合戦の前年、古田織部の茶会の客人は、その茶湯日記に織部好みの歪んだ沓型茶碗を「ヘイゲモノ」(おどけた姿のもの)と評したという。やきものは産地名や作者名がつくのが普通だが、産地名でも作者名でもない古田織部の名にちなんだ「織部焼」は今も独特の風合いのやきものとして知られる。能を観て、何が謡われ、語られているのかをどうやって理解すればいいのだろうと思っていた。自ら能を好み、能の海外進出のプロモーターも担った日本文学者、ドナルド・キーンによると「現在の能は、特に謡う部分は、音楽の旋律に応じて母音を極端に引っ張ったり飲み込んだりするので、非常にわかりにくい。専門家でも謡本を見ながら能を見ることもあるくらい」だと知って安心した。キーンは、「徳川時代までの能は、もっと写実的でもっと早く、もっとわかりやすかったはずです。…一般の人、あるいは文字の読めない人でも能を理解できていた」のだという。「ところが、徳川の時代になって、能の意味がかなり変わりました。…権力者たちは能を徳川の時代を象徴する音楽として選びました。それで能は一般の人のためでなく、特殊な人、専門家と将軍家、大名などのための音楽になった。聴衆はみな、能をよく知っている人ばかりだという常識ができた」ため、「田舎の人にもわかってもらうという意欲がなくなった」という。キーンは、徳川に先立ち、「天下統一を成し遂げた秀吉は、…文化的にも公家や僧侶にも劣らぬところを見せなければと案じて、能を学ぶことをその最善の道と判断した」と言い、能を学んだ秀吉公は「まもなく人々の前でも自信をもって舞台に立つようにな」って、「後陽成天皇の宮中での三日の間に…一二曲の能を舞った」という。秀吉公が「芸術に情熱を傾けるようになって、他の大名も秀吉に気に入られるために能を学ばざるを得なかったのだが、この宮中演能の際には徳川家康も『野宮』を演じ、二日目には新作の狂言『耳引』を秀吉と共演した」という。さすがの家康公も秀吉公との共演は緊張したかもしれない。その家康公の能の腕前については、聚楽第で申楽興行があったときに「舟弁慶の義経にならせ給ひしが。元より肥えふとりてをはしますに。進退舞曲の節々にさまで御心を用いざれば」、皆が笑ったが、後にこれを秀吉公が聞いて、「徳川殿は雑技に心を用いられざるゆへ。当時弓矢を取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめ」たという話が残る。ただ、「秀吉の死後、新たな後援者を探すことを迫られた役者たちは、それを…徳川家康に求め、一六〇(2)能 40 ファイナンス 2023 Dec.

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