ファイナンス 2023 Dec. 39三代家光が今日の姿にした日光東照宮(陽明門)(東照宮社務所 著『日光東照宮寫眞帖』,東照宮社務所,1936.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1701860(参照 2023-10-21)日光東照宮寫眞帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)徳川家康公が遺した…(下)記録も家光には多く、今では想像もつかないが、葛西、中野、高田、小石川、品川、麻布、目黒などが鷹場として記される。夢枕に家康公が立つたびに狩野探幽に家康像を描かせた一連の肖像が残り、秀忠が建てた東照宮を今日の姿に造り替える。これにより、家康公、二代将軍秀忠が蓄えた徳川家の金銀百萬両を費したという。世界的建築家ブルーノタウトは「世界の名所に比すれば物の数ではな」いと日光東照宮を評したが、平成十一年(1999)登録のユネスコの世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産として残る。「徳川實紀」は、家光について「公には寛大勇壮の御資質にわたらせたまひ。東照宮(家康公)。台徳院殿(秀忠)創業の御跡をうけつがせ給ひ。理世安民の御政厳粛にして。紀綱正しく定めさせ給ふ。…大方上下のわいだめおごそかに。よろづの式法どもたてられ。御所の御かまへものこの 御代につくりひろげられしとなん。…されどまた奢侈をにくませ給ひ。武備質素をむねと命ぜられしが。一とせ火の事ありてのち。御所のつくり改められたる時。ことにその結構花麗なりしを御覧ぜられ。これ天下に倹をしめすゆへんにあらずと宣ひ。即日に毀ち破り改めつくらせしめられ。」と伝わる。1600年に関ケ原の戦いのときに59歳だった家康公には、その後も3人の男子(義直、頼宜、頼房)を残す。家康公の11人の男子には幼少や若くして亡くなった人も多く、関ケ原の合戦の後、安芸広島に栄転した福島正則のいた尾張を与えられた四男忠吉が28歳で後継ぎなく病死し、九男義直が継ぐ。水戸には25万石で五男信吉が入るが21歳で亡くなり、十男頼宜が継ぐ。頼宜が、その後、駿河・遠江50万石に移ると、水戸に十一男頼房が移る。秀忠は家康公の遺言で六男松平忠輝を改易。その後、弟の十男頼宜を紀伊に移し、秀忠の子忠長に駿河・遠江55万石を与えるが、その後の乱行により三代家光が蟄居・自害させる。結果、最終的に義直、頼宜、頼房の3人が尾張61万石、紀伊55万石、水戸35万石の御三家となる。このうち、紀伊徳川家からは8代将軍吉宗が、水戸徳川家からは最後の将軍慶喜を輩出するも御三家筆頭の尾張徳川家からは将軍が出ていない。茶は権力者に愛され、権力者の庇護の下で花開いたという。永禄一二年(1569)、信長公は入洛するなり、当時名物として知られた三つの茶入を召し上げたといい、信長公の名物茶具は「三つの茶入れのほか五十数種類」、秀吉公は、「六十六種類の名物を所持」、「幕藩体制が整った三代将軍家光の所持した数は、百種をこえ」、「権力の座の大きさが、この名物の数によっておのずから誇示」されているという。信長公は優れた功績のあった家臣にしか茶の湯を許さなかったといい、これを許された数少ない一人だったのが秀吉公。天下人となった秀吉公も茶を愛す。家康公は「茶の湯に親しまず、茶の席に連なることはあっても自ら茶会を催すことは少なかった」と言われ家康公の晩年の生活を記す、「駿府記」にも茶にまつわる話は少ない。ある時、秀吉公が諸大名を集め、「わが宝とするものは…種々かぞへ立て。さて各にも大切に思はるる宝は何々ぞ」と問うたとき、毛利や宇喜多等は所持の品々を申し立てたが、家康公が黙っていたので、「徳川殿には何の宝をか持たせらるる」と問われて、「君それがしはしらせらるる如く三河の片田舎に生立てぬれば。何もめずらかなる書画調度を蓄へしことも候はず。さりながら某がためには水火の中に入りても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍ら(4)御三家(1)茶6 文化
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