に陳情、公は江戸に行き、秀忠夫妻と竹千代(家光)、國千代(忠長)と対面。家康公が座り、「竹千代殿これへこれへと御手をとりて上段にのぼらせたまへば。國千代の方も同じくのぼり給はむとし給ふに。しし勿體なし。國はそれにとて下段に着せしめられ。御菓子を進められし時もまづ 竹千代殿へ進らせ。次に國へも遣わせ」と言い、お江に向かい「嫡子と庶子とのけじめは。よく幼き時より定め置てならはざればかなはぬものなり。行すえ國が堅固に生立ば 竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ。今よりその心掟し給へ。これ國がためなり」と言い、秀忠にも諭したところ、秀忠も「盛慮のかしこさを謝し」、お江は「何と仰せらるる旨もなく。ただ面あからめておはせし」といい「人々のつかふまつりざまも改ま」ったという。こうして三代将軍家光までは家康公が決める。三代将軍となるも10年間は秀忠が大御所。「将軍の世紀」によると大御所秀忠が亡くなると「老中や大老さえも言葉を慎むような恐怖政治」だったという家光。老中らの監視役として目付を設け、監視の目は隅々に行き届き、「島津家久殿の屋敷内にある小さな材木小屋から出火している事を、屋敷内の者がまだ気づかないうちに、目付たちがいち早く知って門をたたき、邸内より出火、と呼ばわったので、邸内の者も気づき、消火することができた。これほど油断なく目付たちは、江戸の各所を見回っている様子なのだ。言葉に尽くせないほどである」と驚きをもって子の忠利に伝えた細川忠興の手紙が残る。家光は、肥後、豊後五十四万石の加藤清正の子忠広を改易し、父秀忠の死後、乱行のあった弟忠長を自害させる。戦国と違い武士たちの力の見せ場のない時代になり、血筋、家柄、官位、石高等で「大名の序列化」を始めた家光。江戸城本丸登場城時の「殿中席」が重要だと言われ、御三家と加賀前田家が入る大廊下(忠臣蔵の松の大廊下)、溜之間(大名最高の詰めの間)、大広間など部屋や畳の目数まで細分化され、それが将軍家との縁組、官位の昇進などにより入れ替わったという。元和九年(1623)に二条城で将軍宣下を受け、寛永三年(1626)二度目の上洛で後水尾天皇の二条城行幸を父秀忠と迎えた家光は、秀忠の死後寛永十一年(1634)には、30万7千人を率いて三度目の上洛。家康公が始めた切支丹禁止を進め鎖国を完成させ、寛永十四年(1637)の切支丹の農民による島原の乱を鎮圧し、これが徳川時代、幕末まで最後の実戦になったと知られる。その島原の乱。「徳川實紀」によると、寛永十四年(1637)10月、肥前國島原にて「天主教を奉ずるもの一揆をくはだて」。「一揆の人数雲霞の如くあつまり」更に天草も加えて一揆勢は1万2千余。家光は当初、板倉内膳正重昌(大坂の陣の時の京都所司代板倉勝重の子)を追討の御使として派遣。それを聞いた柳生但馬守宗矩(将軍秀忠、家光の兵法指南役)は、家光に「土民等深く宗門を深く信じ。その法をかたく守る時は。…必死の勇者となる…内膳位浅く禄少し。一旦は御使いの事ゆへ。西国の大名等その下知にしたがふといへども。案の外に時に伸びて攻めあぐまば。いかに思ふともせんかたなかるべし。其時に至り。重ねて家門の貴族か。又宿老の権威ある輩をゑらび御使立てられば。内膳なに面目ありてか。そのまま帰り来るべき。あたらしき武士一人みずみず討死にせしめん事。まことにおしきことならずや。かつは百姓の一揆に御使いの人うたれしといふことは。長き天下の御恥辱にこそ存れ。あはれお許し蒙りて今より打立。内膳を引き連れかへり来るべしと。」はばかるところなく申したが、命じた其日のうちに召し返すのは考え難いと「上にも御後悔の色みえ給ひしが。宗矩も詮方なく引退けり」という。果たして、板倉重昌は十二月朔日に着陣するが一揆軍は手強い。家光は上使として松平信綱らを派遣。その到着前、寛永十五年(1638)元旦に追手は総攻撃するも、攻撃を予想していた城兵が待ち構え、板倉重昌「自身鑓とり諸軍を下知すといへども。進むものもなければ。重昌手勢ばかりを引ぐし堀をわたりこし。数十丈の堀を乗んと近寄」ったが鉄炮で撃たれ、討死。松平信綱らは1月4日に着陣。総勢「十二万四千四百人の着到」。遠巻きに包囲する作戦に変更。やがて城兵は「兵糧矢玉もつきたる様」になり、2月27日に総攻撃、細川勢が天草四郎を討ち取り、ようやく攻落。2月27日、28日両日の城責だけで追手側の討死1,051人、手負いは6,743人という。「徳川實紀」は「後に思ひあはするに。宗矩が詞掌を指すよりも明らかなりし事共なり。」と記す。家康公の意向で世継ぎとなったことから、生涯、祖父を崇拝。「徳川實紀」には、家康公が好んだ鷹狩の 38 ファイナンス 2023 Dec.
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