ファイナンス 2023 Dec. 37関ケ原の合戦のおり、眞田昌幸が秀忠軍を撃退し、合戦に遅参させたという上田城。天正11年(1583)、眞田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ながら、2度も徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせた。数ある城郭のなかでも、2度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は、全国でも他に例がないという。上田城跡公園 - 上田市ホームページ(city.ueda.nagano.jp)徳川家康公が遺した…(下)謙譲の御志不覚。御孝心又あつし。そのうへ文徳智勇を兼備ましまし。久しく御家嫡に備わり給ひ。位望また御兄弟にこえて。天意人望の帰する所なり。」と秀忠を推す者は一人だったというが、秀忠以外の二人は家康公より早世しており、お眼鏡に狂いはなかった。秀忠も政事では厳しい。家康公の遺言により弟の松平忠輝、関ヶ原の戦いでも功のあった安芸49万石の福島正則を改易、家康公の謀臣で信頼が厚く、亡くなる直前に家臣で唯一枕元に呼ばれたという本多正純も最上義俊改易で城を受け取った後、江戸へ帰らぬうちに改易、兄結城秀康の子で娘婿、大坂の夏の陣で真田幸村などを討ち取り、大阪城を陥れた松平忠直を隠居させるなど41名の大名を改易する荒事を実行。天正十八年(1590)、12歳で初めて上洛した際には秀吉公から大歓迎され、関白より一字をさずけて秀忠となる。このとき「秀吉大いによろこび。君の御手をひき。…さまざまにもてなされ。大政所みずから御ぐしをゆひ直し。御衣裳も改めかへ。金作の太刀はかしめ。…御供せし井伊直政等にむかひ。大納言殿には幸人にて。よき男子あまたもたれしな。長丸いとをとなしやかにてよき生立ちなり。ただ、髪の結様より。衣服の装皆田舎びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。」と伝わる。関白秀吉の天下の時代、16歳で信長公の姪で、淀君の妹で秀吉公の養女であるお江(22歳)と結婚。高校1年生で天下人の親戚で結婚歴のあるスーパーセレブな女性と結婚したことがまだないので、どんなものかはよく分からないが、やはり子宝に恵まれ、お江との間に秀頼の妻千姫、3代将軍家光をはじめ8人の子を残す。将軍秀忠が駿府に滞在中、家康公が自身の側室阿茶の局(大阪冬の陣のときの休戦交渉役で大阪城の堀を埋めさせた功労者)を呼び、「城中きっての美人の女中に菓子を持たせて訪問させよ、と命じた、阿茶の局も、気の利いた上意であると賛同し、…とりわけ艶やかな姿に仕上げて菓子を持たせ、秀忠の居室を訪問させた」、「秀忠は、上下姿でこれを出迎え」、美女を「上座に据えて菓子をおし戴いて受け取ったものの、それが済むと」、その場に佇んでいた美女に向かって「『早く帰らせ候らへ』と声をかけ、自ら先導して居室から送り出してしまった」という。これを聞いた家康公は「将軍はりちぎ第一の一なり。我はしごをかけても及びがたし」と上意があったと伝わる。また、阿国の歌舞伎が流行り諸大名が招いていると聞いたが、「一度も召されることはなかった」という。20歳の家光に将軍を譲り、大御所として、家康公の生前から意図されていた娘和子の入内を実現。将軍家光とともに御水尾天皇の二条城行幸を迎える。お江は二条城行幸が無事に終わるのを待っていたかのように5日後に亡くなる。「徳川實紀」は、秀忠について「いかにも天資孝順温和にましまし。何事も列祖の御庭訓にもれ給はず。いささかも御心のままに。専らふるまはせ給ひし事はおはしまさず。列祖神さりませし後は。…己を虚にし諫をいれ。倹を崇み奢を禁じ。百姓を撫育し賦税を減省し給ひける。…こと鼓うつことを好ませ給ひけるが。天下の御ゆずりをうけつがせたまひて後は。更に鼓を御手にもふれたまはず。侍臣等そのゆへをうかがひしに。上の好む所は下必ならふものなり。今我鼓をこのむことあらば。天下貴賤とも鼓を習て。武備を廃せんかと恐るるぞと仰せければ。聞もの落涙して退きたり。」と伝える。父秀忠が将軍の時に生まれたが、「徳川實紀」は「この公御幼稚のほどは温和に過て。御言葉もまれまれにのみ宣ひし」と記し、弟國千代(忠直)を母お江が「殊さら…いとをいみふかくましましければ。…近侍の者または女房などもおほく國千代の方にあつま」ったという。心配した家光の乳母春日局が家康公(3)家光
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