ファイナンス 2023年12月号 No.697
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加賀藩の上屋敷跡、東京大学本郷キャンパスの赤門坪(無年貢抱屋敷)、下屋敷(平尾=板橋)は二十一万七千九百三十五坪余、蔵屋敷(深川)は二千六百八十八坪。江戸時代も後期の上屋敷には三千人近い人々が居住していた」という。「江戸の発達」はまた「過大人口に加えるに贅沢な消費生活からは、大火災の頻発、風俗の頽廃、旗本の窮乏、浮浪者の増加その他ひいては幕府の基礎も危うくするような弊害が生まれた」という。弊害の根本原因はこの二制度のため、幕府も本格的な対策には手を付けられず、ようやく、「幕府の際末期文久三年(一八六三)に至って、内外の情勢に押され、ついに祖法を破って、大名妻子の国元引き揚げを許し、参勤の制度を緩和」すると「江戸の大名屋敷はから屋敷同然の有様」になったといい、「間もなく再び旧制に戻そうとしたが、その時は幕府の威信地に落ちていて、実行されずにそのまま幕府の瓦解に至った」という。家康公は多くの子孫を残す。正室・後室と16人の側室・妾が確認されていて、11男、5女という家康公が始めた徳川時代は260年余り続く。そのように多くの子孫を残したのも健康長寿ゆえか。徳川幕府の公式文書「徳川實紀」によると公は「健康には殊の外留意し、…鷹狩・乗馬・水泳等で身体を鍛えることは怠りなく、薬にも強い関心をしめすようにな」り、「駿府に退隠後は、…製薬の研鑽につとめ、…自ら製剤」したという。大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした翌年、慶長20年(1615年)に75歳で亡くなったのは、秀吉公の死去から17年後。戦国の英雄達が天に召される時期が違っていたら、歴史はどうなっていたのかは神のみぞ知ることである。その家康公の子孫をみると二代将軍秀忠は54歳で、三代将軍家光は48歳で逝去。歴代将軍で家康公より長生きしたのは、西洋医学の恩恵も受けられたと思われる最後の将軍慶喜の77歳のみ。子供の死亡率の高かったこの時代、家康公の子も多くが幼少期に亡くなる。成人しても長男信康など多くの子供が家康公より先に亡くなり、家康公より後に亡くなったのは、三男秀忠のほか、御三家となった九男義直、十男頼宣、十一男頼房。そして、大坂夏の陣でのいきさつから越後高田60万石を取り上げられた六男忠輝(92歳まで生きた!)。家康公が遺した「東照宮御遺訓」。「人の一生は重荷おもにを負をひて遠き道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし…」など知られているものも多いこの遺訓。歴代将軍は、家康公の「命日にあたる毎月一七日に、麻上下を着用して江戸城本丸御殿の御座の間上段の少し下段側に着座し、『御遺訓』を拝聴することを代々の慣例としていた」という。その際、御遺訓を拝読する小姓頭が将軍の上座に座り「対する将軍には敷物はあてがわれず、拝聴している間、将軍は両手をついて頭を下げていた」といい、そのような役目は恐れ多いとして読み上げ役をしり込みする者が多かったという。家康公の長男信康は21歳で信長公の命により自刃させられ、次男秀康は秀吉公の人質となる。三男秀忠は、信州眞田攻めに手間取り、関ヶ原の合戦に間に合わず、家康公の本陣に着くと家康公は対面しなかったという。家康公が家臣に「我今男子三人もてり。いづれにか我家國をゆづるべき。卿等が思ふところをつつまず申すべき」と尋ねたところ、「武勇絶倫智謀淵深にして。しかも御長子なれば」と次男結城秀康や、関ケ原の合戦で功のあった四男の忠吉を推すものが多い中、「乱を治め敵に勝つは。武勇を先とすといへども。天下を平治したまはんとならば。文徳にあらずしては基業をたもち給はん事かたし。…中納言殿はもとより(1)子孫5 人(2)秀忠 36 ファイナンス 2023 Dec.

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