ファイナンス 2023 Dec. 35寛永9年(1632)の江戸図 明暦の大火の前で江戸城天守閣があり、御三家の屋敷も城内にある。000020695.jpg(11000×8037)(i-repository.net)東京都公文書館所蔵資料徳川家康公が遺した…(下)くしてその形さだかに見え難し、軒の周り門の辺りには虎が風に毛をふるい、獅子がはがしらする風情、誠に生きて活くかと身の毛もよだちて傍へ寄り難し」と言われ、「桃山様式をそのまま江戸に移して来て、諸大名が豪壮華麗を競っていた」という。中でも蒲生飛騨守秀行の屋敷の門は「人が見とれて帰るのを忘れる故に日暮門と呼ばれ」、大阪冬の陣のあった「慶長十九年頃では、屋敷の立派なのでは浅野筑前守長政、門の立派なのでは松平上総介忠輝」と伝えられる。他方、家康公自身は、「江戸城内の屋敷を見すぼらしいままにしていたので、旗本たちも割り当てられた屋敷内に…粗末な家を建てた。屋根は茅葺きで、白壁の家などほとんどなかった。-…旗本屋敷はのちのちまで質素で瓦ぶきの屋根はなかった。」といい、諸大名に豪華建築を競わせて費用をかけさせる一方で、倹約を重んじる家康公の考えが徹底していたことがうかがえる。豪壮を誇る諸大名の屋敷も火には弱い。「火事は江戸の華」ともいわれるが、死者10万を超え、「将軍以下西の丸に避難して辛うじて難を免れ」たと言われる明暦三年(1657)の大火は江戸の6割を焼き、完成した江戸城も西の丸を除き焼失させ、諸大名の豪華建築も灰燼に帰したという。度々の再建は容易ではなく、大建築物は火災を大きくする危険。幕府も建築物の大きさや高さに制限を加え質素にすることを命じたという。明暦の大火の後、「都市災害の問題が大きくクローズアップされ…幕府は大規模な新都市計画をたて、着々と実行に移した」といい、御三家を城外転出(尾州・紀州屋敷は麹町に移転)させ、大名屋敷や寺社も移転させるなどしたという。そして、「寛永頃に江戸はすでに京都を凌いで日本一の大都市になっていたと思われる」江戸の最盛期の人口は、「少なくとも一三〇萬と推定」されるという。「文政五年(一八二二)江戸に来たオランダ人フィツセルは、その紀行の中に、『おそらく世界の最大都市たる日本の首都…』と記し」たと言い、「その頃ロンドンやパリを始め、欧米諸国都市も未だこれだけの人口を持つに至らなかった」という繁栄ぶり。「江戸と江戸城」によると明治2年の調査だと江戸の武家地は68.58%、寺社地は15.61%、町人地は15.81%、人口概算は武家地65万、寺社地5万、町人地60万人で1m2当り人口密度(現在、東京都区部で15,485人)は武家地16,816人、寺社地5,682人、町人地は67,317人‼。「江戸っ子は『宵子越しの金は持たねえ』ことを誇りとした」というのも「江戸の繁昌に彼ら職人は失業を考える必要がないので、明日はまた明日で稼ぎの銭が入り、蓄財の不要をいった」ともいうが、「常に火災にあっている…彼ら江戸っ子は、年に一度くらい家が焼けるのは当たり前であった」からともいう。このような江戸の繁栄をもたらしたのは諸大名の妻子江戸在府制度と参勤交替制度だと「江戸の発達」はいう。これにより、「全国二百数十の諸大名は江戸に広大な屋敷を構え、多数の家臣や召使を擁することと」なり、「大名は普通上・中・下の屋敷を江戸に持ち」、「夫人が常住し在府中は主人もいる上屋敷は、…大きいものは数万坪」、「多数の家臣家族が住居し江戸家老以下諸役人を持つ政府があり、幕吏も干渉しえない一王国をなしていた」という。「江戸を埋めるばかりにこのような大名屋敷があり、競って贅沢な生活」。ゆえに「大名の生活を通じて全国の富の大半が江戸で消費され、…町人も栄え江戸は非常な繁栄を来した」という地方の富を吸い上げて江戸が潤う一極集中の消費システム。最近、家康公に関する本が多い中、新聞各紙でも紹介された「将軍の世紀」によると、「外様最大の加賀・前田家(約百三万石)」では、「元禄九年(一六九六)七月、五代国主前田綱紀の帰国に随行した人数は、六千七百六十人…加賀・前田家は十七世紀から幕末まで、いまの東京大学本郷キャンパスに当たる上屋敷をはじめ次の四屋敷を所持し…上屋敷(本郷)は十万三千八百二十二坪、中屋敷(駒込)は二万六百六十
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