ファイナンス 2023年12月号 No.697
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4 住(続き)岡崎で生まれてから、駿府で亡くなるまでの75年の生涯で家康公は各地に足跡を残しており、前回は大坂から駿府まで主な場所を西から順にたどってきたが、最後は家康公が幕府を開いた江戸。前回に引き続き、大河ドラマで40年振りに徳川家康公が主人公となった今年は、直接、間接に家康公が遺したものについてご紹介。鎌倉時代に江戸氏が治め、室町時代に太田道灌が江戸城を築いた江戸。天正十八年(1590)年、7月13日、小田原の北条氏を滅ぼした秀吉公は家康公に対し、東海甲信から北条氏の旧領である伊豆、相模、武蔵、上野、上総、下総の六カ国に移るよう命じ、その命に従い、8月1日には江戸に入ったというからすごいスピード感。江戸時代には8月1日を八朔といって祝ったという。東京都の編集・発行の「江戸の発達」は、「徳川家康が江戸に入ってきたときの江戸城はみすぼらしいものだった」という。「城の外側には石垣もなく、ただ柴の土手がめぐらして」あり、「その中にあちこち粗末な建物があったが、屋根は腐って雨漏りがし、その中の畳も腐ってい」て、「玄関の土間で上から段に幅の広い舟板が並べてあった」、「後の西丸、今日の二重橋を入った皇居の所は田畑があり梅の木などが植えられてい」て、「とても200万石を超す天下第一の石高の居城とすべきものではなかった」という。「日比谷から馬場崎門の辺まで日比谷入り江が湾入し、日本橋から京橋・銀座・築地辺は、州となつて」いて、「城下も町といっては茅葺の家が百軒ばかりで、白の東の方の平地の分は、至る所が汐入の茅原で、武家の屋敷や町家を十町と割り付けるだけの場所もなかった」という。せっかく駿府城を整備したばかりのところ国替えで江戸に入った家康公。「城下の開拓を先にし、城は応急修理便にとどめた」というが、征夷大将軍となると、「その威風を示すためにも、天下の総力を挙げて江戸城の大拡張工事を始めた」という。将軍任命の翌慶長九年(1604)から着手された「工事は、全国の大名に課し、全国の資材を集めてなされ、それに要した経費や労力は日子は、測りがたい莫大なもの」で数度の大工事の結果、巨大な城郭が完成。江戸城に関する文献は多いが、日本建築史・日本都市史の専門家の「江戸と江戸城」によると「一万一九二五両を諸大名に補助して工事用の石船調達を命じた」といい、伊豆には「三〇〇〇艘の石船が集中」し、三代家光の時代寛永十五年(1638)に完成した天守閣は高さが京間29間5尺(58.64m)に及び「天守台は江戸城でも最も高い位置に築かれたから、城下からは100メートル以上の高さとなっていたであろう」という。「本城は本丸・二の丸・三の丸等を含み、西城は西丸・紅葉山を含み、また吹上苑があり北の丸があり、…お茶の水や四谷辺は台地を盛り割って作った大工事…現在の外神田を除く千代田区と中央区に当たるところの武家地と町家の重要部分を抱擁し」、「本城・西城・吹上苑だけで面積約30万坪」。石垣に面した城門(見附)は俗に三十六見附と称されたといい、赤坂見附などに地名が残る。大坂の陣のあった慶長の末頃、「諸大名の屋敷の建並んだ所は壮観目を奪うものがあった」という。その模様は、「諸侯大夫の屋形つくりを見るに、ただ小山の並び立るが如し、棟破風光り輝くその内に、龍は雲に乗じて海水を捲き上げ、孔雀鳳凰の翼を並べて舞下る。これを振りさけみんとすれば、天津光うつろい眩元国際交流基金 吾郷 俊樹(8)江戸 34 ファイナンス 2023 Dec.徳川家康公が遺した…(下)

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