ファイナンス 2023年11月号 No.696
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ファイナンス 2023 Nov. 45令和5年度夏季職員トップセミナーまた、ある量販店のバイヤー様からは「いくら良い商品であっても、広告してお客様に知っていただかないと、それは良い商品とは言えません。」と言われたこともありました。お客様に知っていただくために何かをしなければいけない。そう考えていた時に、友人からインターネットのホームページを使った情報発信の可能性について教えてもらいました。「これはおもしろい」と思い、早速ホームページを作ることを学びはじめました。講師は「ホームページは作ればよい、というものではありません。見に来てもらうには、毎日情報が更新されていなくてはいけないのですよ。」とおっしゃいました。私が困った顔をしていると、「あなたの日常を書けばいいのよ。」と言われました。「え、日記ですか? 自分のプライベートを書いても読んでくれるのかしら?」とその時は思いましたが、その講師が立ち上げた、女性だけで作るサイトにある「日記マンション」の一部屋をもらって、とにかく日記を書き始めたのです。まだブログという言葉も定着していない時代でした。そうしたところ、意外なことに、私の日記は人気ランキングで上位に入ったのです。その経験を基に、自社のサイトで「看板娘ホッピーミーナのあととり修行日記」を書き始めたのです。こうして発信を始めたことから、私のブランディングと申しますか、絶滅危惧種扱いとなっているホッピーの、惨憺たるイメージの改善への取り組みが始まったのです。おかげさまで、今年の夏にホッピーは発売75周年を迎えました。「ミキサードリンク」、これは創業者である祖父及び二代目である父が、これこそ我々の矜持である、として使った言葉で、とても大切にしています。実は、祖父たちはビールを作りたかったのです。当時、滝野川にありました醸造試験所で、祖父の弟である初代工場長が学び始めるのですが、免許の関係でビールを作ることができなかったので、アルコール度数が低い原液を作り、そこに焼酎の代わりにアルコールを混ぜて合成ビールを作ろうとしたようです。でも、うまくいきませんでした。私は、祖父たちができなかったことを、やろうと思いまして、入社後、最初に試みたのが既にアルコールを混ぜた「ホッピーハイ」という商品の開発でした(後述)。しかしうまくいきませんでした。やはり我々はミキサードリンクのパイオニアで行く、ホッピーと何かを混ぜていただき、そこで唯一無二の、お客様にしかできないお味を作って楽しんでいただくことこそが、ホッピーの最大の魅力、他にないところかな、と思っています。近年、ホッピーが復活するきっかけとなりましたのが「低糖質、低カロリー、プリン体ゼロ」です。実は、プリン体ゼロについては、私たちは知りませんでした。「ホッピーのプリン体はどうなの?」というお問い合わせを多くいただきまして、ホッピーを(一財)日本食品分析センターに出したところ、プリン体になる成分は検出されないことが分かったのです。その後、「プリン体ゼロ」という表記をしたところ、これが健康志向とも相まってホッピー復活に繋がっていったのです。創業者は祖父の石渡秀でございます。祖父の父親である石渡五郎吉は九十九里生まれのまじめな大工だったそうですが、自分の結婚式当日に近所の魚屋のお嬢さんに一目ぼれして駆け落ちをして、知り合いがいる赤坂に逃げてきたそうです。そんなことで赤坂に居を構えました。次男として生まれた秀に商いの才覚があって、1905年には10歳で石渡五郎吉商店を立ち上げ、当時、歩兵第一連隊駐屯地、現在では赤坂ミッドタウンがあるところですが、そこに餅菓子を納めておりました。ある時、海軍を通じてラムネが入ってくるというお話を聞き、餅菓子の原料(砂糖)を使ってやってみないかと言われた祖父は、10歳そこそこでラムネづくりの研究を始めます。自分の名前から一字とって秀水舎という会社を立ち上げてラムネ製造を始めたのが1910年で、祖父が15歳の時のことです。これが清涼飲料の世界でお世話になるきっかけとなりました。その後、終戦直後にホッピーを発売します。社名も秀水舎からコクカ飲料に変更します。コクカは桜のことです。そうした経緯があって弊社のホッピーの瓶には桜のマークが入っています。エ)ミキサードリンクのパイオニアとしてオ)低糖質、低カロリー、プリン体ゼロカ)創業者である祖父石渡秀

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