芦城公園(三の丸跡)高岡跡九龍橋川丸跡福飴屋町みよっさ(出所)筆者作成 ファイナンス 2023 Nov. 41図3 市街図卍卍卍卍本折日吉太太字字==曳曳山山八八町町街道筋水路跡西武→大和跡卍卍卍卍卍卍卍卍小松製作所寺寺町町大大文文字字町町龍龍助助町町八八日日市市町町三日市町石黒紙店東町山岸履物店跡土居原町ジャスコ跡北陸鉄道跡卍卍卍卍卍卍卍卍西西町町九龍橋團十郎芸術劇場うらら小馬出町旧加能京京町町加州跡小松跡中中町町材材木木町町松任町細工町70年代まで一等地だった三日市町石川県統計書によれば明治18年(1885)の最高地価の場所は三日市町だった。戦後の路線価においても、昭和54年(1979)まで最高路線価地点は三日市町だった。昭和48年(1973)に所載された地点名は「三日市町石する。建物は現存し、石川商銀信用組合の小松支店を経て平成14年(2002)から小松市立空とこども絵本館の絵本館ホール“夢の本棚”となっている(図2)。平成15年(2003)に登録有形文化財となった。鉄筋コンクリート造2階建、角に配置された円筒状の塔屋とスクラッチタイルの外壁が特長だ。ちなみに京町通を挟んで向かい側の近代建築は行舎と同じく昭和5年築、鉄筋コンクリート造2階建の山本久次商店である。米谷銀行が金沢に本店を移した2年後の大正10年(1921)、小松商業銀行、小松共立銀行、三栄銀行の3行が合併して小松銀行が発足した。小松に本店を構える銀行だったが昭和15年(1940)、米谷銀行の後身の加能合同銀行に合流した。3年後の昭和18年(1943)、加能合同銀行は戦時中の一県一行主義に則り加州銀行、能和銀行と合併、北國銀行が発足した。加州銀行は金沢が本店で小松への進出は明治32年(1899)だった。北國銀行の本店は金沢の武蔵が辻にあった加能合同銀行の本店を継承。小松支店は元の小松銀行本店から引き継いでいる。なお京町の九龍橋側にある北陸銀行小松支店は富山県旧城じょう端はな町を本拠とした野村銀行が前身だ。開店は大正5年(1916)で砺波銀行、高岡銀行を経て、昭和15年(1940)に北陸銀行となった。外縁からターミナルに変わった駅前小松駅前が発展したのは戦後からだ。駅前が最高路線価地点を獲得したのは昭和55年(1980)。地点名は「土ど居い原はら町まち山岸履物店通り」だった。土居原町の“土居”とは水害から市街地を守る土堤を意味する。視点を変えれば街の境界線であり、小松駅はその外側にあった。小松駅の開業は明治30年(1897)9月。福井から延伸を重ねてきた官設鉄道北陸線が小松に到達した。高度成長期にかけて小松駅には2本の私鉄路線が発着していた。1つが大正8年(1919)開業の尾小屋鉄道で、元は小松駅の南西約17kmにある尾小屋鉱山の鉱山鉄道だった。もう1つが北陸鉄道小松線である。前身は明治40年(1907)に開通した遊泉寺銅山専用鉄道で、小松駅から真西に約8kmの遊泉寺銅山に至る路線だった。建機大手の小松製作所(コマツ)の前身、竹内鉱業が経営していた。小松製作所は竹内鉱業小松鉄工所が分離独立して発足した会社である。駅前再開発に伴う大型店の登場は駅前の景色を一変させた。昭和45年(1970)3月、小松駅前防災建築街区として4階建の「こまビル」が竣工。金沢に本店を構える「いとはん」が核店舗になった。いとはんは後に合併してジャスコになる。こまビル計画に続く小黒紙店前通り」だ。三日市町には小松初の百貨店があった。昭和5年(1930)、駅正面の大通りと三日市町の角に開店したマルワ百貨店だ。不運にも昭和7年(1932)の橋南大火で全焼。丸和百貨店にあらため昭和9年(1934)に3階建の店舗を再建した。金沢に本店があった宮市大丸(現・大和百貨店)と提携し取締役支配人を受け入れた時期もあった。戦後、丸福百貨店になったが、昭和34年(1959)の大火で再び焼失。今度は再建されることなく閉店となった。⛩⛩⛩⛩莵橋
元のページ ../index.html#45