(主な参考文献)「江戸の発達」、東京都、1956年「新訂増補國史大系 徳川實紀 第一編」、吉川弘文館、1990年「特別展 江戸を開いた天下人 徳川家康の遺愛品 伝世品でみる家康の文化面」、財団法人 三井財団 三井記念美術館、2010年久能山東照宮宝物解題 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)「現代語訳 三河物語」、大久保彦左衛門著 小林賢章訳、筑摩書房、2018年「新人物文庫 現代語訳 信長公記」、太田牛一著、中川太古訳、株式会社KADOKAWA、2015年「戦国資料叢書6 家康史料集」、小野信二校注、人物往来社、1965年「将軍の世紀 上」、山内昌之、文芸春秋、2023年「徳川家に伝わる 徳川四百年の裏養生訓」、徳川宗秀。株式会社小学館、2018年「日本の歴史 13 江戸開府」 ■達也 中央公論社 1967年6月29日は「佃煮の日」について|全国調理食品工業協同組合ホームページ(zenchoshoku.or.jp)佃煮の種類や歴史は?誰でも作れるレシピもご紹介!|鰹節・だし専門店のにんべんネットショップ(ninben.co.jp)佃煮の世界:水産庁(maff.go.jp)「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」、岡崎寛徳、講談社、2009年中央区ホームページ/旧浜離宮庭園(chuo.lg.jp)目黒の地名 鷹番(たかばん)|目黒区(city.meguro.tokyo.jp)三鷹市|三鷹の歴史「明治時代・三鷹の誕生」(mitaka.lg.jp)大阪城天守閣(osakacastle.net)「家庭画報」2023 May,世界文化社、2023年「日本歴史シリーズ11 江戸開府」、世界文化社、1972年「江戸開幕」、藤井譲治、講談社学術文庫、2016年「人物叢書 徳川家康」、藤井譲治、日本歴史学会編集 吉川弘文館 2020年「完訳 フロイス日本史(3) 安土城と本能寺の変」、中央公論新社、2020年「天皇の歴史5 天皇と天下人」、藤井譲治、株式会社講談社、2018年「江戸時代の古文書を読む 家康・秀忠・家光」、徳川林政史研究所編、2012年二条城会見|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー|国立公文書館(archives.go.jp)国宝・二の丸御殿|二条城 世界遺産・元離宮二条城(kyoto.lg.jp)「徳川十五代史:巻之1〜2 東照公記 慶長8年〜19年 第1編」、内藤 耻■、博文館、1914年「京都二条城と寛永文化」、Living History in 京都・二条城協議会、青幻社、2022年関ヶ原の戦いがあった場所とは/ホームメイト(touken-world.jp)「新訂 徳川家康文書の研究 上中下之1.2」〜「下巻」、中村孝也、日本学術振興会、1980年、1982年名古屋城の概要|特別史跡 名古屋城|名古屋城について|名古屋城公式ウェブサイト(city.nagoya.jp)徳川家康公の来歴|家康公と岡崎城の歴史|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト(okazaki-kanko.jp)徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松(hamamatsu-ieyasu.com)三公の関り|頭陀寺(zudaji.or.jp)INNOVATION ROAD - ヤマハ株式会社(yamaha.com)徳川家康と駿府 - 【公式】駿府城公園(sumpu-castlepark.com)明治大学発祥の地(深溝松平家上屋敷跡)/千代田区文化財サイト(edo-chiyoda.jp) ファイナンス 2023 Nov. 25現在の駿河台周辺は、明治大学や日本大学など多くの大学が所在する学生街。明治時代、私立専門学校のほとんどが帝国大学の所在する本郷と霞ヶ関の官庁街とのほぼ中間にある神田界隈に集中していたひとつの理由は非常勤講師たちが出講可能な場所だったからだという。写真は明治大学駿河台キャンパス徳川家康公が遺した…(上)感できる企業ミュージアムには、著名な国際コンクールでも使用されているコンサートグランドピアノCFXもあり、音楽好きでなくても思わず弾いてみたくなる。音楽好きなら嵌って出られなくなる魅力的な場所。今川義元の居城があった駿府は、今の静岡市。家康公は三度住む。最初は今川家の人質時代、天文十八年(1549)、父・広忠が暗殺され、8歳で今川義元の人質となり駿府へ移る。16歳で今川氏の重臣・関口義広の娘・築山殿と結婚し、18歳で長男・信康が誕生したのも駿府。次は信長公とともに武田家を滅ぼして、駿河を与えられた後、関東に移封されるまで。そして最後は関ケ原の合戦の後、天下人になり、秀忠に将軍を譲ってから晩年に亡くなるまで過ごした地。「将軍の世紀」によると公は「大坂の秀頼と京都の後陽成天皇に睨みを利かせながら、豊臣の力を過小評価せず伏見に在城することも多かった」、『将軍の城』江戸城、『天下人の城』駿府城、京都の伏見城、二条城の「四つの場所の重要性は固定されておらず、家康がどこにいるかという事実で決まった」という。秀吉公がもし、徳川を関東に移封していなかったら、江戸幕府ならぬ駿府幕府が開かれ、江戸時代は駿府時代と呼ばれたかも。そうなると広大な関東平野を持たない首都駿府はずいぶん窮屈になり、今の日本はどうなっていただろう。大御所時代、駿府は大御所家康公の城下として繁昌。家康公が亡くなると、その繁昌の大部分は駿府にいた家臣とともに江戸に引移り、その時移ってきたものの屋敷地に由来するという「駿河台」の名は今も残る。次回は、「住」の続き、家康公が幕府を開いた江戸から、遺した人、文化、仕組みなどについて。(7)駿府
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