ファイナンス 2023年11月号 No.696
28/72

ヤマハの企業ミュージアムINNOVATION ROAD 前列の一番手前のピアノがCFX。ピアニスト気分で体験「グランドピアノ弾き比べコース」 - INNOVATION ROAD - ヤマハ株式会社(yamaha.com)もお勧め。ヤマハ株式会社提供天井には板絵、極彩色の彫刻欄間がはめ込まれ、日光東照宮を彷彿させる。城だけではない。もともと信長公も安土城を築く前は清州城を居城とし、本能寺の変の後の体制について柴田勝家、羽柴秀吉ら織田家の重臣が集まり清須会議が開かれたのも清州。尾張藩の中心は清州城だったが、水害に見舞われることが多かったため町ごと名古屋に移る。「家臣や町人、商家や質屋まで約60,000人と3つの神社、100を超える寺などをすべて、清州から名古屋城下へと移し」たといい、「清洲越」と呼ばれる。三の丸部分は、現在では愛知県庁や名古屋市役所が建てられており、名古屋市行政の中心地。首都東京だけでなく、今日の名古屋の礎を築いたのも家康公。名古屋の繁栄は周知のとおり。名古屋城の他、尾張徳川家の財宝を収蔵する徳川美術館で往時を偲ぶことができる。天文十一年(1542)、家康公生誕の地、今の愛知県岡崎市。いにしえより、東海道の舟運による交通の要衝として栄えたという。6歳で人質として駿府へ向かう途中で裏切られて連れ去られ、尾張へ送られ、その後、人質交換で今川家の人質となり駿府に移るが、桶狭間の戦いで味方の大将今川義元が討ち取られると、駿府に戻らず、岡崎城に入る。ここで今川と手を切り、織田と組む。29歳で武田信玄との戦いに備えて浜松に本拠を移すと、岡崎は長男信康の城となる。岡崎城のそばには、「東照公産湯の井戸」や、家康公のへその緒を埋めたとされる「東照公えな塚」が残る。信康の妻は信長公の娘で、父への手紙がきっかけで武田家との内通を疑われた信康は信長公の命により、自害させられ、その生母で家康公の正室、築山殿は岡崎城に行く途中で殺害される。今だと芸能人などセレブな夫婦のもめごとは文春砲で撃たれるが、戦国時代だと本当に命を落とす。浜松城は家康公を始め歴代城主が出世していった出世の城として知られ、大河ドラマの放送が決まっていた昨年、駅前にご当地キャラ「家康君」の巨大なマスコット。永禄十一年(1568)12月、家康公が遠江国に攻め入って、当時の引間城を攻め落とし浜松城と名付け、以後17年間居城とする。その際、いちはやく家康公に味方したという松下家は、少年時代の秀吉公が信長公に仕える前に尾張から針を売りながらこの地に来て、初めて仕えた武家だという。また、幼くして父を失った井伊直政は松下家の養子となり、大河ドラマにもなった「おんな城主」直虎の計らいで家康公にお目見えし、小姓となる。後に徳川四天王の一人となり、譜代大名最大の18万石の城主となる。その後、武田信玄の脅威に対して、信長公は岡崎へ退くよう勧めたが、公は浜松城に踏みとどまる。元亀三年(1572)に三方原の戦いで「徳川軍は戦国最強と謳われた武田軍の圧倒的な戦力の前に総崩れとなり、わずかな護衛と共に命からがら浜松城へ逃げ帰」ったという。三方ヶ原の戦いに負け、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでその松に掛けたといわれる「鎧掛松」が、浜松市役所の西側に残る。現在の松は3代目、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといい、当時鎧掛松近くの清水で、合戦で疲れた馬のからだを冷やしたことから、馬冷(うまびやし)という地名が今も残る。浜松と言えば、今は鰻が名物だが、浜名湖の鰻の養殖は140年ほど前からとのこと。武田信玄の圧力に屈せずに命懸けで守った家康公の城下町から発展した浜松には、現在、時価総額上位の日本を代表するいくつかの企業の本社があり、浜松駅でもそれら企業の展示がある。ヤマハの本社にあるヤマハの事業と歴史を体 24 ファイナンス 2023 Nov.(5)岡崎(6)浜松

元のページ  ../index.html#28

このブックを見る