ファイナンス 2023 Nov. 23名古屋城の本丸御殿の「上洛殿」1634年(寛永11)、三代将軍家光が上洛に際し、名古屋城に宿泊。これに先立ち増築された本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」。室内の装飾は細部まで贅の限りが尽くされ、「帝鑑図(ていかんず)」や「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」は当時33歳の狩野探幽による。本丸御殿|観覧ガイド|名古屋城公式ウェブサイト(city.nagoya.jp)名古屋城総合事務所提供徳川家康公が遺した…(上)「徳川實紀」は、黒田長政が福島正則の「陣所にゆきて。さまざまいひこしらへ」た結果、軍議で福島正則は一番に家康公の味方になると申出、他も味方となったと記し、また、小早川秀秋の内通も合戦前夜に家康公に報告していたと記す。その長政が合戦の後一番に来たところ、公は「御床几をはなれ長政が傍によせられ。今日の勝利は偏に御邊が日比の精忠による所なり。何をもて其功に報ゆべき。わが子孫の末々まで黒田が家に対し粗略あるまじきとて。長政が手を取ていただかせ給い。これは当座の引き出物也とてはかせ給ひし吉光の御短刀を長政が腰にささせ給ふ」と感謝の模様を記す。戦前の調略により1日で決着したこの戦い。後から見ると楽勝のようにも見えるが、「将軍の世紀」によると、黒田長政は家臣への極秘の遺言で「関ヶ原の一戦の前、東から徳川方として美濃路に馳せ上がった朋輩の多くは、太閤秀吉のお取立て大名であった。その時に、「我等」(私)が心変わりして大阪方と組んでいたなら、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、藤堂高虎なども悦び勇んで、共に別の道を進むことも「案の内」(考えの範囲内)であった。この者たちが西軍(大阪方)に加わり、島津義弘と私が先陣となって攻撃に出たなら、他の東軍(徳川方)は一戦に及ばず敗北するのも明白だったかもしれない。大勢は大阪方となったに違いない。日和見を決め込んだ大名、小名のすべてはこの知らせを聞いて、大阪方に参陣したに相違ない。だからこそ、家康公も我々の心根に疑いを抱き、人馬と連ねて百里以上にもなる大敵相手に、徳川軍の先鋒として井伊直政や本多忠勝だけを遣わし、その後、外様の諸将に二心がないことを見届けてようやく出馬されたのだ。」と語ったのが残る。このあたり、雪で東海道新幹線がしばしば遅れ、「関が原付近での積雪のため遅れます」と車内アナウンスが流れると乗客はきっと関ヶ原の戦いを思い出す。関ヶ原の戦いに勝利した家康公は、慶長八年(1603)に江戸幕府を開く。当時、「大坂城には、いまだ幕府にとって脅威だった豊臣家が拠点を置き、次の戦に備える必要」。家康公はかつて信長公、豊臣秀次も居城にしていた那古野城の跡に慶長十五年(1610)、加藤清正、福島正則など豊臣恩顧の西国大名20家に命じ、天下普請として名古屋城の築城を開始。縄張は藤堂高虎、天守台の石垣は加藤清正、「当時の城づくりの名手」が担う。各大名はその威信にかけて任務を全うし、加藤清正は、天守台の石垣を3ヵ月もかけずに築いたという。築城に際して、福島正則は池田輝政に「これは庶子の居城なれば、実に吾輩諸大名の役に従うべき事にあらず、足元は大御所の愛婿なれば、此の事を諫められよ」と言うと、清正は「足元もしこれを労とせば、速やかに兵を揚げて叛くべし。もし其能わずば、此の言を発するべからず」というと、「正則黙して止む」という記録が残る。家康公の9男義直が初代藩主として入り、盤石の体制を整えた名古屋城から大坂冬の陣・夏の陣へ出陣」。冬の陣の後、義直の結婚(冬の陣で講和した秀頼からのお祝いも贈られていたという。)を名目に名古屋入りした家康公はそこから夏の陣に出陣。金の鯱で知られる名古屋城は、城郭として国宝第一号に指定。昭和二十年(1945)の空襲で焼け再建。設備の老朽化や耐震性の確保などの問題で、現在、見学はできないが、木造での再建が計画されているという。天守閣の再建に先立ち、天守閣と共に戦災で焼失し、平成三十年(2018)に総工費150億円で再建された総檜の本丸御殿は日本を代表する近世書院造の建造物で総面積3100m2、13棟から構成。床は二条城と同じ鴬張り。本丸御殿の上洛殿は寛永十一年(1634)に三代家光の上洛にあわせて増築された御成御殿で、(4)名古屋
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