国宝・二の丸御殿 京都市元離宮二条城事務所 国宝・二の丸御殿|二条城 世界遺産・元離宮二条城(kyoto.lg.jp)家康公の侍医による「慶長記」における関ケ原の戦いの模様 慶長記 上(archives.go.jp)が、4年後に孫娘の婿を大坂夏の陣で滅亡させる。当初、二条城は現在の二の丸の辺りだけだったが、家康公の孫娘和子が入内した御水尾天皇の二条城への行幸の際に拡張され、本丸が設けられたという。寛永三年(1626)、大御所秀忠、三代家光が御水尾天皇を迎えた行幸は、五日間に渡り、御所から二条城までのパレードには全国の大名も参加、雅楽、能、和歌御会などでもてなし、伏見城から移設されたという天守閣には行幸中後水尾天皇が二度登られたという、おそらく二条城の長い歴史でも最も華やかな1ページ。なお、江戸城の本丸・二の丸・三の丸・西丸等の内部の広大な殿舎はいずれも焼失してしまったが、二条城にその様式を偲ぶことができるという。二条城は、平成六年(1994)にユネスコの世界文化遺産登録となった「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の構成資産の一つ。関ヶ原は今の岐阜県関ケ原町。家康公がここに滞在したのは一日もなかっただろうがここは外せない。「天下分け目の戦い」として知られるのは慶長五年(1600)9月15日の家康公の東軍と石田三成の西軍の戦い。もう一つ、飛鳥時代にも天下分け目の戦い、天武天皇元年(672)の壬申の乱の戦場。大化の改新の後、即位した天智天皇の後継を争う戦い、この戦いで勝利した大海人皇子が天武天皇として即位。「敵味方廿萬に近き大軍」が激突した1600年の戦い。秀頼公のために五大老の一人、上杉景勝を討つとの大義名分で家康公が進軍すると、五大老の一人毛利輝元を担いだ石田三成が挙兵。東軍の大阪の妻子を人質にし、徳川方の伏見城を攻め落とす。取って返す家康公の東軍。当時22歳の秀忠率いる徳川の本隊は信州上田で真田幸村の父、昌幸相手に苦戦し、関ヶ原に間に合わず、加藤清正、福島正則、細川忠興ら豊臣恩顧の大名が主力となる。決戦前夜、西軍の島津義弘は家康公本陣への夜襲を進言し、宇喜多秀家らは籠城して大阪城の毛利輝元らの後詰めとの挟み撃ちを主張したが三成が了解しなかったという。関ヶ原合戦の後の論功行賞。「将軍の世紀」によると「豊臣恩顧の大名が戦功第一だった事実を無視できなかった」ため、「関ケ原合戦では西軍に加担した大名の改易と減封によって六百三十二万四千百九十四石の領地を没収…。この数字は全国総石高千八百万石余りの三分の一を超え…没収高の八十%以上の五百二十万石を東軍の豊臣恩顧の大名たちへの加増分に充てた」という。その際、領地朱印状を出すなら、将軍でもない家康公ではなく、秀頼の名で出す以外になかったはず。「厄介な問題を避けるために、…宛行を家康譜代家臣が口頭で伝えた」という。結果、関ケ原で「島津の退き口」で退却の際に四天王の一人井伊直政に重傷を負わせた島津義弘は本領を安堵された一方、120万石だった上杉景勝は米沢30万石に、合戦の際、西軍の総大将でありながら大阪城を動かなかった毛利輝元は120万石から36万石に減封。秀頼の名前で東軍に大金を下賜し、論功行賞が行われたのに、どういうわけか合戦前に220万石だった豊臣家は65万石の大名になる。一度の戦いで徳川時代の基盤を築く。関ケ原戦いの前後の動きは家康公の侍医板坂卜斎の覚書「慶長記」に詳しく、また、この時期の家康公の諸大名への手紙が多数遺る。 22 ファイナンス 2023 Nov.(3)関ケ原
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