ファイナンス 2023年11月号 No.696
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ファイナンス 2023 Nov. 21大阪城の古建造物は徳川時代以降のものだが、今の天守閣は豊臣時代の天守閣を再現。(c)大阪城天守閣 大阪城天守閣(osakacastle.net)徳川家康公が遺した…(上)だと幕下御先において徳川方の多くの将が「討死にす。…関東勢少し敗北のところ」とあり、側近の大久保彦左衛門が子孫に向けて遺した門外不出の「三河物語」だと夏の陣で真田幸村が押し出した天王寺では、家康公の御前には一人しかおらず、散り散りになり、三方ヶ原以来、崩れたことのない公の御旗が崩れたと記す。長久手の戦いの後にも徳川軍二萬ばかりが「眞田が為に散々打ち負けて還」ったり、関ケ原合戦、大坂の陣と真田昌幸・幸村二代にわたる真田の勇名が残り、真田相手には徳川も散々である。大阪城の落城の時、秀頼母子らは櫓に籠る。「駿府記」によると秀頼の妻、家康公の孫、千姫は秀頼母子の助命を願い出る。これを受けて将軍秀忠の意向を、そして最後は大御所の判断を仰いだという。その後、夫を亡くした千姫の侍女への孫娘を気遣う家康公の自筆の手紙が遺る。京都は、天下人にとって朝廷との関係で欠かせない拠点。信長公は京都に自らの城を築く間もなく本能寺で討たれ、直前まで京都にいた家康公は難を免れる。本能寺の変につき、信長公と18回も会見したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、明智光秀の軍がフル装備で京都に入ると「兵士たちはかような動きがいったい何のためか訝り始め、おそらく明智は信長の命によりその義弟である三河の国主(家康)を殺すためであろうと考えた」、「我らの主なるデウスは、都の教会と、当時同所に住んでいた我らを憐れみ給い、ほんの数日前に三河の国主(家康)が堺に出発するように取り計らわれた。彼は信長の義弟であったから、明智は必ず彼を殺すために〔彼もまた殺戮された者の一人になったであろう〕、彼が宿泊した邸と接していた我らの教会に放火せねばならなかっただろう…彼が同所に留まっていたならば、我れらは危険から免れ得なかったことであろう。」と記す。秀吉公は聚楽第や伏見城を築き、慶長三年(1598年)8月に伏見城で亡くなる。翌年五大老の前田利家が亡くなり、石田三成が失脚すると豊臣政権の五大老筆頭だった家康公は伏見の屋敷から伏見城の本丸に入る。これを聞いた「奈良興福寺の僧侶英俊は、日記に『天下殿になられ候』」と記したといい、慶長四年(1599)8月に参内した家康公に対し後陽成天皇は秀吉公や室町将軍と同等の扱いをしたという。幕府を開いた家康公は、慶長八年(1603)、二条城を築く。ここは政権交代の舞台に2回。2回目は幕末、15代将軍徳川慶喜の大政奉還。1回目は、70歳の家康公が19歳の秀頼と面会。孫娘千姫の夫、秀頼との徳川の城、二条城での面会は政権交代を印象付けるための場だったという。これに先立ち、慶長十年(1607)、秀忠が二代将軍になると、家康公は秀頼に将軍への挨拶を求めたものの、淀君が激怒して拒絶。その後、慶長十六年(1611)4月12日、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇即位の儀式に先立ち、3月28日、家康公は19歳になった秀頼を二条城へ呼び出し、会見を要請。この二条城会見について、国立公文書館のWebsiteでは「秀頼は辰の刻(午前8時頃)に二条城に到着しました。家康は庭上まで出向き、秀頼が「慇懃」(いんぎん)に礼をします。その後、家康から『互いの御礼あるべし』と、対等の礼をしようと提案しますが、秀頼はこれを堅く『斟酌』(しんしゃく、遠慮)し、秀頼が家康に礼をする形となりました。饗応の場では、高台院(秀吉正室寧々)も相伴しました。…大坂や京都では会見が無事に終わった事を悦んだと伝えられています。」という。別の文献では、そのとき、秀頼は吸い物を口にしただけで豪華な膳には手を付けなかったといい、加藤「清正は始終秀頼の傍らを離れず」、「福島正則は病と称して、大阪に留」り、「もし万一二条にして変あらば、…正則は大坂を守りて、兵を出さんと約した」という緊張感が伝わる。秀頼との二条城会見を終えた家康が、重臣の本多正信を召して、「秀頼にハかしこき人なり」と述べたと伝わる。そんな秀頼を脅威と感じたのかわからない(2)京都

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