ファイナンス 2023年11月号 No.696
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旧築地市場跡地のすぐ南西に位置する「特別名勝」・「特別史跡」指定の「旧浜離宮庭園」中央区ホームページ(広報紙「区内の文化財」(令和5年1月21日号))より 中央区ホームページ/旧浜離宮庭園(chuo.lg.jp)得が将軍との親密な関係の維持であり、他の大名に対する自家の名誉・誇り」であり、「贈答行為が将軍の手を経ることで、政治性・権力性を帯びるものとなった」。という。江戸時代、鷹匠は千石取りの旗本。鷹狩の獲物も贈答の対象。「将軍所有の『御鷹』が捕獲した鳥を『御鷹之鳥』」といい、これに対し、「将軍自らの『御拳』から放たれた『御鷹』が捕まえた鳥」「『御拳之鳥』」は、「将軍が直接捕獲したという点で極めて価値が高かった」という。将軍は鷹狩の鶴を天皇に献上し、大名に下賜したという。幕末の嘉永三年(1850年)、彦根藩主になったばかりののちの大老、井伊直弼は、「『御鷹の雁』を拝領」。前例に従い、将軍からの上使が「将軍家慶の『上意』を述べている間、直弼はその前で平伏し続けている」という記録が残るという。家康公の鷹狩り好きはその後の徳川家の将軍に引き継がれて、生類憐みの令の5代綱吉の時にいったん廃止されるも、8代吉宗で復活。幕末に参勤交代が廃止される中でも将軍家への鷹の献上は将軍から天皇への鷹狩りの獲物の献上のため続けられたという。都内でも将軍家の鷹場の跡の一つは旧浜離宮庭園として、また、鷹番、三鷹などの鷹狩り由来の地名が今も残る。室町時代に建立された石山本願寺の本山が堀や土塁4 住岡崎で生まれてから、駿府で亡くなるまでの75年の生涯で家康公は各地に足跡を残しているが、ここでは主な場所を西から順にたどる。を備えるなど城郭化したのが大坂城の前身。信長公は「交通の要衝であったこの地に価値を見出し」明け渡しを要求したのを機に「約11年にも及ぶ石山合戦が繰り広げられた」という。天正八年(1580)、和議が成立し本願寺勢が退去。本能寺の変を経て信長の後継者となった秀吉公は天正十一年(1583)、豊臣大坂城を築く。「金箔瓦を施した5層8階…の大天守や千畳敷の御殿などが立ち並ぶ5つの郭と、城下町ごと囲む総構えを持つ、豪華で壮大な城」となったという。小牧・長久手の戦いで秀吉公と対峙した後、秀吉公に服従し天正十八年(1590)の北条攻めの先鋒を務めるなど豊臣の重鎮となった家康公。慶長三年(1598)8月18日、秀吉公が5大老らに秀頼のことを託して亡くなると、翌年9月に直前まで北政所がいた大阪城西の丸に入った家康公はそのまま居座り、「西の丸曲輪内に天守まで構築」したというから大した度胸。関ヶ原の合戦が起こる慶長五年(1600)の正月一日には「諸大名は大阪城本丸の秀頼に年賀を述べたのに続いて、西の丸の家康に年賀を述べた。」という。同年6月16日に大阪城から関ヶ原の合戦のきっかけとなった会津攻めに出発。ただ、公は関ヶ原の戦いの後も豊臣政権の重臣の立場で征夷大将軍となるまで大阪城の秀頼に家臣としての礼をとったという。慶長二十年(1615)、栄華を誇ったこの城も大坂の陣により落城。かつて、太閤秀吉は「此城攻むには二つの術あり。大軍にて年月かさねて固守し。城中の糧食の尽きるを待つか。さらずは一旦和を入れ。堀を埋め塀を毀ち。かさねて責めれば落つべし」と自賛したのを聞いていた家康公はそれを実行。家康公が遺したのは、大坂夏の陣で破壊した豊臣大阪城の跡。元和六年(1620)、徳川幕府二代将軍秀忠は西国への備えとして大坂城の再築城に取りかかる。旧本丸を盛土で埋め、堀を広げるなど、縄張りも大きく変更。現在の姿はこの時築城された徳川大坂城。幕府直轄の城となり、幕末の鳥羽伏見の戦いで官軍の錦の御旗の前に敗れた15代将軍慶喜は夜間、密かに大阪城を脱出。徳川時代の幕開けと幕引きの大きな節目の舞台。大坂の陣については、勝者の歴史「徳川實紀」だと孫の徳川忠直が「眞田幸村が備えを打破り。一番に城に乗入れしかば御感斜めならず」とか、徳川方の戦死した武将について記されているくらいだが、「駿府記」 20 ファイナンス 2023 Nov.(1)大阪

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