ファイナンス 2023 Nov. 19徳川家康公が遺した…(上)地味な話が多い「食」に関して特記すべきは鷹狩。虎狩や狐狩りは、虎や狐を狩るが、鷹狩は鷹で狩る。江戸時代の歴代将軍の鷹狩りについて詳しい「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」によると、鷹の調教には手間もかかり、それだけで生計を立てるのも難しく、古くは朝廷の庇護を受けるなど「権力者たちによって手厚く保護され」てきたという。公の鷹狩り好きも有名で、「なべてえうなき御遊戯は。このませ給はざりしが。…ただ鷹つかふことばかりは御天性すかせられ。」と伝わり、獲物を自ら料理して近習集に食させたこともあったという。今川家の人質時代、小さいときから鷹を使うのが好きで、しばしば隣家の屋敷に鷹が飛び込み、そのたびに隣家の主人に叱られ、その無念さがいつまでも忘れられず、のちに武田方に属した隣家の主人を捕らえたとき、切腹を命じたという。人質時代の苦労をしのばせる話と言われていたが、徳川美術館では今川家でも幼少から鷹狩りができるほどの厚遇を受けていたとの解説。長久手の戦いの後、秀吉公からの上洛を求める使いを鷹狩の場に召出し、「われ此頃は鷹つかふをもて。明暮の楽しみとす。都方は織田殿のすすめにて一覧せしかば。今はまた見まくとも思はず」と言って上洛を拒否したという。鷹狩の効用について「一つは御摂生のため。一つには下民の艱くをも近く見そなはし。山野を奔駆し身体を労働して。兼ねて軍務を調練し給はん」と考えていたという家康公は、秀吉公に従った後には、時には一緒に京都に鷹狩りに出かけたという。「駿府記」を見ると、大坂冬の陣の前年、慶長十八年霜月は、4日、10日から14日まで「御鷹野」、15日に腰痛で「御鷹野止む」が17日には回復し「御鷹野」、18日は「御鷹野」の途中、民情視察もしていて、百姓の訴えにより代官が「百姓と御前において対決を遂げ」、代官を罷免、19日、21日、24日から29日までも「御鷹場」や狩りの成果が続き、鶴十九を獲った26日には「御気色甚だ快然」との記録。大阪冬の陣の際にも道中で「御放鷹」、「鶴の御料理、近習の輩これを賜う」とある。ただ、大坂夏の陣の年、慶長廿年(1615)正月の鷹狩で「鶴取の御鷹、鶴のために損ず…これにより御機嫌快からず」、11月には「御鷹場水滞り御放鷹ならず。これによって代官御勘気を蒙る」、更に12月には「御鷹損スルニよっテ」「御小人頭稲垣現右衛門誅戮」というし、大坂夏の陣の際に伊達政宗が大胆にも他人の領地、相模で鷹狩をしたところ、そこを守る大岡なにがしが「鑓提て出切り政宗にむかひ。某があづかりしところを。かく狼藉せられては。大御所へ対し奉りて申分立ず。我首取りてご覧に入られ。某が緩怠にあらざるよし申されよとののし」ると、さすがの政宗も当惑して「ひらにゆるされよ」と詫びたというから、この時代は命懸けである。公の鷹マニアを知って、伊達政宗など諸大名の中には鷹を献じるものがあり、公もまた、豊臣秀頼をはじめ大名への贈答に鷹を用いたといい、慶長十七年(1612)正月には「御鷹の鶴」を後陽成上皇、御水尾天皇に献上し、また、秀頼公に贈ったという。「鷹と将軍 徳川社会の贈答システム」によると、家康公の鷹狩り好きのためか、江戸時代、鷹狩りは一つの文化として花開き、歴代「将軍たちへの鷹の献上・拝領、大名間の贈答と言う形で鷹が全国を飛び回った」といい、そのために「幕府によって張り巡らされたネットワークがあった」という。金融政策と違って、徳川時代、タカ派、ハト派などはなく、タカ派のみ。鷹は「権威と忠誠の表象」だともいう。献上される鷹は、容姿端麗な若鷹(その年に獲れた鷹)、「手つかずの初物」で「大名が拝領した鷹は、将軍が鷹狩に使用(実際には代行の鷹匠など)した、お手つきの鷹」だったという。「しかも、鶴、雁、鴨を捕獲した実績のある大鷹が拝領鷹に選ばれており、鷹や獲物のランクが大名家格にリンクしていた」という。例えば、安永二年(1773)、参勤交代の帰国の餞別として鷹を拝領したのは9人(御三家の尾張藩、紀州藩、越前松平家など徳川一門と将軍家の外戚金沢藩前田家、幕府の重鎮や顧問的立場の大名)だけで、中でも格式の高い「鶴捉」の鷹を拝領したのは、御三家の尾張徳川家と紀伊徳川家のみ(水戸藩主は帰国しないため、餞別を拝領する機会はない。)だったという。鷹の献上大名には、「自己をアピールする格好の献上品であり、将軍に良き心証を得られる機会」であり、拝領大名には、帰国後に鷹狩りをして、獲物を献上しなければならないが、「拝領者が少ない分、その意義・価値は大きかった」という。このように、献上大名・拝領大名双方にとって、財政面の損失に「余りある利(3)鷹狩
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