ファイナンス 2023年11月号 No.696
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家康公が江戸にもたらしたという佃煮 出典:佃煮の世界:水産庁(maff.go.jp)肥満といっても美食三昧ではなく至って粗食だったという。三河時代、夏には麦飯を供していたが、「あるとき近臣の扱いにて。飯器の底に精米を入れ。上にいささか麦をのせてたてまつりしかば御けしきあしく。汝等はわが心を知らざるな。わが吝嗇にして麦を食ふと思ふか。今天下戦争の世となりて。上も下も寝食を安むずることなし。さるに我一人安飽をもとめんや。」と叱ったと伝わる。また、信長公から夏が旬の桃が一籠、季節外れの11月に贈られてきたとき、近臣等は珍しいとはやしたところ、「此菓子珍しからぬにはなけれども。信長と我とは國の大小異なれば。好むところも又同じき事をえず。わがごときものは。珍品を好むとなれば害ありて益なし。」といって、そんなものを好むとなると「國中の良田畝に無用のものを植えて民力をつからすべし」、「すべて心あらん者は。奇品珍物は好むまじきなり」と笑って食べなかったという。これを伝え聞いた武田信玄は「家康や大望があるゆへ。養生を主として。時ならぬもの食わぬと見えたり」といったと伝わる。また、霜月の寒い朝、伊達政宗からの使者が来た際、朝食を相伴せよといって使者に出したが、ごはんと「君が御前にのせし菜は。粕漬の魚ばかりにて。いと倹素の御事なり」と本当に粗飯だったといい、「徳川實紀」には「萬事倹素」という一章が残る。最近、家康公関連の本が多い中で新聞各紙でも紹介された大著「将軍の世紀」は、家康公の教えが将軍家に残ったゆえか「歴代将軍の食事はいかにも質素だった」という。ただ、公は健啖家だったようで三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて浜松城に逃げ帰った後、戻ってくる兵が困るので城門を閉めるなと言って、門の内外に大篝を設けさせ、「御湯漬けを三椀まで」食べると御高鼾をかいて寝てしまったというし、本能寺の変の後、堺から三河への逃避行「伊賀越え」のときも白子から船に乗ると安心して腹が減ったのか、「船子己が食料に備蓄し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を。常に用ゆる椀に盛て」出すと、塩辛を肴に「風味よし」といってやはり三碗食べたという。「食」に関して、今も残るのは佃煮。家康公が江戸に入った頃、漁業は微々たるもので漁法も幼稚であったという。このため、摂津の漁師が江戸にきて漁業権を得て、進歩した漁法を取り入れたため、関東で漁業が大いに発達したという。家康公が伏見にいた時から関係があった摂津国西成郡佃村の森孫右衛門が一族7人と佃村などの漁夫30余人を連れて江戸にきて、佃島(中央区内)をもらって住居し、江戸湾の漁業を営み、魚介を幕府の膳所に出し、その残りを市中で売ったという。全国調理食品工業協同組合のWebsiteによると、本能寺の変の後の「伊賀越え」の折、家康公「一行が、今の大阪・住吉区の神崎川にさしかかった折、渡る船がなく足止めに遭って難渋しているとき、…「森 孫右衛門」とその配下の漁民たちが、舟とともに自身が備蓄していた小魚煮を道中食として差し出し…日持ちが良く、体力維持にも効果を発揮した小魚煮のお陰で家康一行は、無事岡崎城に辿り着くことができ」たという。公は「佃村漁民への恩義と小魚煮の効果を忘れず、森 孫右衛門をはじめとした漁民を江戸に移住させ手厚く加護した」と伝えられる。江戸の人口が増加し、需要が増えるにつれて市場が必要になり、日本橋本小田原町(今の室町一丁目)に開いた。魚市場は江戸の中心の日本橋際にあり、「商売柄非常に活気があったので、江戸の一名物となっていた」といい、「江戸の繫昌の象徴のような観があった」と「江戸の発達」は言う。江戸時代から人気スポットだった日本橋の魚市場は関東大震災で焼失したのを機に築地中央市場に移転。佃煮の「にんべん」のWebsiteによると、「上等な魚は幕府へ納められましたが、小さな魚は佃煮にされ、庶民の口に入るようになった」のだといい、今も「贈答品としても重宝されている佃煮は、和食には欠かせない食品の一つ」。粗食だった家康公は食べ物にまつわる話も実用的。 18 ファイナンス 2023 Nov.(1)粗食(2)佃煮

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