ファイナンス 2023年11月号 No.696
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ファイナンス 2023 Nov. 17家康公が臨終に当たり、枕元に置き、切先を西国に向けておくように遺言したという三池典太光世作の差料とその拵 出展:宇都野正武 編『久能山東照宮宝物解題』,画報社,大正4.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-10-26)徳川家康公が遺した…(上)の五大老(宇喜多秀家、上杉景勝、前田利家、毛利輝元、徳川家康))の刀をとりよせ。「我其刀の主をあてて見む」といって全て当てて見せたという。なぜわかったのかと驚いて尋ねると「先ず秀家は美麗をこのむ性質なれば。金装の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀これならん。利家は卑賎より幾度の武功を重ねて大國の主となりし人なれば。いにしへを忘れずして革鞘を用ゆるならん。輝元は数寄人なればこと様の装せし品その差料ならむ。江戸の亜相は器宇寛大にして。刀剣の製作などに心用ゆる人ならねば。元より装飾もなく美麗もなきなみなみの品。その佩刀ならんと思ひて。かくは定めつれ」といったといい、家康公の刀は質素だったと分かる。鉄砲の名手であったという家康公。「鳥銃は三発。…日課の御徳にていささか怠らせ給はず」と伝わる。慶長十六年(1611)8月、既に70代の公は的の星に当てること五度、近侍が撃ったが皆当たらず、櫓上に留まった鳶に自ら鉄砲を放ち、三度とも当たって、「二鳶すなわち落つ。一鳶、足を射切りて飛去す」という話も残る。家康公の側近大久保彦左衛門の「三河物語」には戦の際に鉄砲を仕損じた家臣に対して、技術的なアドバイスをしていたとの記述もあり、徳川美術館にはこれを扱うには大変だったろうと思われる家康公の長大な外国製の銃身の鉄砲が遺る。なお、若年のほどより70過ぎまで「日毎にかならず御馬にめし」、「乗馬でも「海道一二の建騎」「海道一の馬乗り」といわれ、弓も「信長公記」によると武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いで逃げる家康公を、「敵が先回りして待ち受け戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今にはじまったことではなかった」という。家康が用いた染織品も「駿府御分物」の中に数多く遺る。侍医の覚書「慶長記」に「家康公よりはしまりし申候。…家康公しわき御人と世上にて申候得共、…小袖の結構になり候事、家康公よりはしまり候事、人はしらす。」、「関ケ原御合戦に御かち、其年のくれに、諸大名小袖を進上被申候。其年より翌年にはけつこう(結構)になり、年をへ候程、いやましによく成候」とある。このように家康公は「ファッションに敏感だった」といい、「一見質素な小紋染の小袖でも手の込んだ技法が凝らされている」、「復元した羽織右派、金色の地に波兎文というカラフルなもの」、復元した浴衣も「藍染めの大胆な文様は当時先端のデザインであったに違いない」という。慶長十四年(1609)には房総沖で遭難し、救助されたイスパニアの属領フィリッピンの総督ドン=ロドリゴ=デ=ビベロは駿府に赴き家康公に謁見。その容貌を「(家康は)壮麗な宮殿内の広き室の中央なる段上に置かれた緑色天鵞絨(ビロード)の椅子に座し、寛闊な衣を着し、髪は束ねてあり、年齢は六、七十歳位、中丈で肥満し、愉快気な容貌で、尊敬すべき老人である。」と記す。3 食秀忠に将軍職を譲り、大御所となった家康公の慶長十六年から二十年の大阪の陣前からの駿府での生活を記した「駿府記」。クール便もない時代、どうやって運んだのか仙台の伊達政宗からも「鮮魚」など諸大名などからの贈り物の数々に晩年の食生活が伺える。(3)鉄砲(4)ファッション

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