家康公が天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いと大坂の陣に携行し、見事勝利を収めた徳川家“吉祥の具足”歯朶具足 出典:宇都野正武 編『久能山東照宮宝物解題』,画報社,大正4.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2023-10-26)の家康公は「敵軍の中ををしわけ。難なく小荷駄を城内へはこび入れしめられ」、敵も味方も天晴と感嘆しない者はいなかったという。召替用のほぼ同形の金箔押しの上に透漆を塗って白檀塗とした白檀塗具足とともに江戸城の神庫で大切に取り扱われていたもの。「当時の武将は、目立つ衣装で身を飾るという意識を濃厚に持っていた」というのも、戦で手柄を立てても見てもらえなければ、論功行賞されない。今川家の人質の身なら尚更か。家康公の具足の中で最も重要なのは冑に歯朶(しだ)の前立てが付属することから「歯朶具足」と称される甲冑で、関ケ原の合戦の前に霊夢を見た家康公が奈良のお抱え具足師に製作させたもので、関ケ原の合戦、大阪の冬の陣、夏の陣に用いられて『御勝利之御具足御吉例』として江戸城で特別に大切にされて来たもの。総重量19kg、「全体を黒で統一した重厚で質実な具足」が地味なのは、既に家康公は論功行賞される立場でなかったから目立つ必要もなかったということか。慶長二十年(1615)、家康公最後の戦い、大坂の陣では、鎧も着用しない大御所家康公を見て驚いた外様大名の藤堂高虎が「何とて具足をめし給はぬか」と言うと、「あの秀頼の若年ものを成敗するに。何とて具足の用あるものぞ」と語ったというが、高虎が出た後、身内には、高虎は「上方者ゆへ。心の底を見せまじとて先の答えはしつれ。まことは年寄りて下腹がふくれしゆへ。物の具しては馬の上下もかなわぬゆへ着ざるなり。何事も年寄りては。若きときとは大いにかわるものなり」と嘆いていたという。当初久能山に納められたこの具足、三代家光によって江戸に取り寄せられ、承応元年(1653)8月、13歳の四代将軍家綱は、歯朶具足を身に着けて具足初めの式を行い、歯朶具足に倣った写し型の具足を二領作らせ、一領は歯朶具足の代わりに久能山へ納め、以後歴代の将軍も写し形の具足を新調し、毎年正月十一日には、黒書院で写形の具足を飾って具足祝いの嘉儀を執り行うようになったという。南蛮銅具足。16世紀後半から始まった南蛮貿易によってキリスト教に関する文物や火縄銃などと共にヨーロッパ製の甲冑も日本にもたらされた。家康公が歯朶具足とともに関ケ原の陣中に携えていたのがこの具足で日光東照宮の宝物として遺る。「武家の魂」と言われる刀剣。日本刀はまず刃文(刃の文様。「波紋オーバードライブ」の波紋ではない。)の美しさを見るものらしいが、どう見たらよいか門外漢には難しい。家康公の遺産である「駿府御分物」のうち約一二〇〇点近くにものぼるという刀剣。最も有名なのは、きっと「重要文化財 太刀(銘)(表)妙純伝持/ソハヤノツルキ(裏)ウツスナリ」。古来より鎌倉時代の三池典太光世作とされ、銘文の意味は未詳というが、家康公は、「臨終に当たってこの刀を枕元に置き、切先を大坂の陣後も不安の残る西国に向けておくように遺言」し、「久能山東照宮第一の重宝として江戸時代には蒔絵刀箱に納めて社殿内陣に置かれご神体同様に扱われた」という。家康公の懸念とおり、没後250年の時を経て、関ケ原の西軍だった島津や毛利を中心とする官軍により徳川幕府は倒される。鍔のない合口式の拵が付属する家康公の脇差「重要文化財 脇差 無銘 行光」も久能山東照宮蔵で鎌倉時代の名工行光によるもの。この他、徳川美術館には慶長十六年(1611)3月28日、京都の二条城で豊臣秀頼が家康公と会見した時に贈った刀「重要文化財 刀無銘一文字 名物 南泉一文字」もあり、由来を聞けば、いずれも只者ではないことは素人にもわかる。家康公の刀については、ある時秀吉公が諸大将(後 16 ファイナンス 2023 Nov.(2)刀剣
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