ファイナンス 2023年11月号 No.696
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ファイナンス 2023 Nov. 15駿府城公園の家康公像 鷹狩好きの家康公の左手には鷹元国際交流基金 吾郷 俊樹1 はじめに天正十八年(1590)、秀吉公は小田原の北条氏を攻める。「未だ小田原攻囲中、秀吉は家康に語って、落城の跡はこの城は貴君に渡そうと思うが、その場合ここを居城とするつもりかと問うた。家康はこれにこたえて、将来は別として当分はここにいるのがよいと思うというと、秀吉はこれに反対して、ここから東の方に江戸というところがある。そこは関東を収めるのに景勝の地であるから、そこを本城とするがよいといい、家康もこれに従った」という。「その着眼の優れていたことは、その後の江戸から東京の発達の跡が、何よりもよく示している。」と東京都編集・発行の「江戸の発達」はいう。徳川幕府の公式記録「徳川實紀」によると、当時、旧武田領など5か国の大大名だった徳川からすると「当家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五國を奪う詐謀なる事疑いなし。…されば御家人等は御國換ありとの風説を聞て大に驚き騒」いだというが、家康公はこれを受け入れ、「汝等さのみ心を勞する事なかれ。我たとひ当領をはなれ。奥の國にもせよ百萬石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましけれる」と伝えられる。大河ドラマで40年振りに徳川家康公が主人公となった今年は、直接、間接に家康公が遺したものについてご紹介。「武家にとっての表道具(晴れの道具)は、武器・武具」。「家康ハ華奢風流ハ成程不調法なれ共、治をなし、家を斉へ、人を見知る、武道の達人也、我朝にハ言うにや及ふ、異国にも希なるべし」と言われた家康公ゆかりの甲冑については、中世以来の伝統的な腹巻、新形式の具足、当時の舶来品である南蛮銅具足など新旧さまざまな形式が遺る。古くは、静岡浅間神社の紅糸威腹巻。家康公が今川義元から送られた着初めの腹巻と伝えられ、室町時代の伝統的な形式。久能山東照宮の金陀美具足は、永禄三年(1560)5月18日、桶狭間合戦の前日の大高城兵糧入れの具足として知られ、総重量12kgと軽くて実用的な金箔や金粉で表面を金色とした当世具足。桶狭間の戦いに先立ち、大高城への兵糧運び入れの任務は、今川方の「家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし」だったのを引き受けた当時18歳2 衣―遺愛品から家康公が遺したものとしては、まずは遺愛品として伝わる数々の品々。まとまって伝わるものでは、没後に徳川御三家に譲られた「駿府御分物」と呼ばれる遺産。特に尾張家伝来品が名古屋の徳川美術館に多数所蔵。これらとは別に日常的に使っていた遺愛品(これを「手沢品」という。)の多くが久能山東照宮に御神宝として遺され、その大部分が「国の重要文化財に指定。まずは遺愛品の中から衣食住の「衣」を中心にご紹介。(1)甲冑徳川家康公が遺した…(上)

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