札幌税関支署 次長髙松 和彦 88 ファイナンス 2023 Oct.石狩川流域は、早くからサケの豊富に獲れるところとして知られ、開拓使設置当時、現在の札幌市周辺には先住するアイヌ民族と何百人の和人が居住しているだけでした。札幌市の中心部である扇状地を作り出したのは石狩川支流の豊平川であり、アイヌ語で「サッ・ポロ・ぺッ」(乾いた広大なところ)と呼ばれ、これが札幌の地名の起こりという説があります。札幌市に税関が設置されたのは、終戦後、米軍が駐留していたことから輸出入通関業務の増加に伴い、昭和26(1951)年に小樽税関支署の出先として、札幌出張所が設置されました。昭和30(1955)年には札幌税関支署に昇格し現在に至っています。札幌税関支署は、札幌市をはじめとする19市、9郡を管轄しています。明治維新後の明治2年に札幌を北海道開拓の拠点として開拓使が設置され、その発展の基礎が作られました。開拓にあたっては、移民の誘致、道路工事、市街の測量などに着手し、市街地は幅約20メートルの道路を南北に交差させました。現在、札幌市の碁盤の目1.はじめに札幌市は、明治2(1869)年の開拓使設置以来、北海道開拓の拠点として発展し続け、現在では人口約197万人を擁し、北海道全体の3割強の人口が集中しており、全国市町村別の人口ランキングでは、横浜市、大阪市、名古屋市に次いで4番目の人口規模を誇る大都市に発展しました。2.札幌市の沿革の街並みはこの時から継承されているのです。開拓初期から、多くの外国人技術師たちを雇い入れて、先進国の農業工業の知識や経験、専門技術の導入や機械など近代的なものを受け入れて、開拓の革新が図られました。また、政府の殖産興業政策にならい、札幌にも紡織所・味噌醤油製造所・麦酒醸造所・諸機械などの官営工場が続々と建設されました。農業の発展は最重要課題の1つで、明治9年には札幌農学校が開校したのを機に、マサチューセッツ州立農科大学の学長であったウィリアム・クラークを教頭として迎えました。クラークが帰国の際に告げた「BOYS BE AMBITIOUS」(青年よ、大志を抱け)は、若者のチャレンジ精神、そして北海道開拓魂を代表する言葉として、今も新鮮な響きを持っています。昭和30年代、高度経済成長期の全国的な都市集中傾向は、北海道における中心都市である札幌市で特に顕著となり、都市規模が急激に拡大していき、昭和45年には札幌市の人口が100万人を超えました。札幌オリンピック開催が決定すると、オリンピック関連施設の整備事業、都市建設、都市整備などオリンピックを目指した建設ラッシュが続き、札幌市はオリンピックを境にその景観が一変したと言われるようになりました。昭和47年は札幌市の歴史上、画期的な1年となりました。まず、2月にアジアで初の冬季オリンピック大会が開催され、さらには、4月には政令指定都市に移行しました。○開拓使設置○戦後の目覚ましい発展新時代の札幌 〜 歴史と新しさ、 自然と文化の調和〜札幌市札幌市
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