第44回 「富山県高岡市」第44回 「富山県高岡市」(出所)令和5年8月18日に筆者撮影(出所)図1と同じ275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D図1 金屋町の街なみ図2 旧高岡共立銀行本店 76 ファイナンス 2023 Oct.城下町を商工業拠点へ転換した街高岡市街は前田利長が開いた城下町に遡る。利長は初代加賀藩主で利家に次ぐ前田家2代当主である。開府は慶長14年(1609)だが、肝心の高岡城は慶長20年(1615)の一国一城令で廃城。廃城で住民が流出し寂れるところ、3代当主利常は商工業拠点へ再生を図る。台地にあった城跡は、有事の軍事転用を念頭にあえて堀を埋めずに藩の米蔵や塩蔵を配置。低地にあった城下町には魚問屋や塩問屋を誘致した。北前船が寄港する伏木湊を外港に持ち、「加賀藩の台所」と称されるほどに繁栄した高岡の町衆文化のシンボルが高岡御み車くるま山やま祭だ。毎年5月1日に開催される関野神社の春季例大祭である。京都祇園祭をはじめ、平成28年(2016)にユネスコ無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」の33件の1つである。高岡の御車山は祇園祭の山鉾に似ているが台車の上に鉾ではなくパラソル状の「花笠」が乗る。通町、御おんまだし馬出町、守山町、木舟町、小こんまだし馬出町、二番町が町名と同じ名前の御車山を各1基保有。一番町、三番町および源平町の3町が一番街通という御車山を共有し、祭の日に旧市街を曳き回す。先導役を担う坂下町に御車山を保有する9町を加えた10町は山町と呼ばれた。伝統工業では高岡銅器など鋳物業が有名である。前田利長が、街から10km南郊の戸と出いで西にし部ぶ金かな屋やから鋳物師を誘致し、千保川の北岸に土地を与えて住まわせたのが発祥だ。一画は鋳物師の出身地にちなみ金屋町という。千本格子の町家が並ぶ風景が特長で、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(図1)。御車山祭と縁が深く山町と呼ばれた10町の界隈を山やま町ちょう筋すじといい、特に北陸街道沿いの小馬出町、木舟町、守山町が賑わった。問屋や銀行が集積し、商都の中心街を形成していた。明治17年(1884)の富山県統計書によれば、高岡市街の最高地価は小馬出町だった。1反平均地価は317円で、県庁があった富山の東四十物町(355円)に比べても引けを取らなかった。明治18年(1885)、山町筋に商品市場の中心となる高岡米穀取引所ができた。明治22年(1889)に高山町筋の問屋・銀行街明治16年(1883)に石川県から富山県が分離。高岡は富山県に属することになり、経済都市としての独立性は高まった。郊外化の一方で進む山町筋の街なみ再生郊外化の一方で進む山町筋の街なみ再生路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史
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