ファイナンス 2023年10月号 No.695
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38 ファイナンス 2023 Oct.時期赤字国債も出さなくて済んだりもしていたので、国債発行当局の苦労みたいな期間は一段落していました。それが平成一桁くらいの時代です。私が国債課の補佐に着任した平成10年(1998年)の夏は、橋本龍太郎総理の時代です。橋本内閣は、財政健全化を掲げていた内閣だったので、国債をそこまで出そうということにはなっていませんでした。さっきお話したように、資金運用部はまだ余裕資金があり、国債を運用部で引き受けたり買ったりということができていたので、理財局の国債課の仕事はそこまで大変ではないだろうと思われていたのが1998年の夏だったんですね。ところが、色々状況が変わっていきました。一つは橋本内閣から小渕内閣に政権交代があり、小渕恵三首相になって財政運営のスタンスががらっと変わったことです。景気が悪い中で、国債を増発して景気を財政で支えるという方向になり、それこそ補正予算で国債10兆円増発みたいなことになっていきました。他方で、財政投融資の方は、さっきお話しした財政投融資改革をまさにやっていこうとしていて、10兆円も増える国債を、資金運用部の財政投融資の余裕資金で受け入れることはできませんとなりました。「10兆円増発する国債は国債課が自分たちで工夫してなんとか捌いてください」みたいな状況になりました。そこから国債課が、ではどうやって自分たちで国債の発行を工夫していこうかということを考えるという時期に入っていく、そういうタイミングでした。服部 その時は課長補佐でいらっしゃったんですよね。齋藤 次席補佐です。当時の国債課は、総括補佐が課全体の取りまとめと、法律改正・制度改正が必要なときの法令担当をやっていました。私が座っていた次席補佐は、企画といわれる国債の発行計画全体を作る仕事と、あとは実際の国債の発行の日々の入札の担当でした。だから、いまの企画課と業務課に分かれているものの両方を1人でやっていたわけです。服部 次席補佐を2年やられたのでしょうか。齋藤 2年ですね。服部 では当時は、入札も当然見ていて、国債発行計画もやっていたということでしょうか。齋藤 はい。でも、両方を1人で担当するというのも、それはそれで合理性があったんです。国債発行計画を作るときは、何年物の国債でいくら出すのかということを考えます。つまり年限別の配分をどういう風にするか、ということですが、これが国債発行計画作りの肝の部分ですよね。年限によって買い手の投資家層がある程度変わってくる中で、それぞれの年限の需要と供給のバランスを見ながら、増発しないといけない時に、何年物をどれくらい増やそうかということを考えます。そうすると、入札担当として毎月実際に入札をやっていると、「この年限はまだもう少し増やせる余裕があるな」とか、「この年限はもう結構パンパンだな」とかが分かるので、そういう意味では入札をやっている人間が計画を作るというのはすごく合理性があったと思うんです。服部 市場参加者とのコミュニケーションについて、当時と今との違いはありますか。齋藤 今は入札をやるときに、プライマリーディーラー制度という仕組みがありますけれども、当時はそれができる前でした。なので、入札の前日に、入札に参加してくれる証券会社、大手の銀行、そういう人たちに対して全部で30社くらいに手作業でヒアリングをしていたと思います。入札の前の日に職員が手分けしてヒアリングをして、明日の入札にニーズがありそうかどうかを確認します。実際入札をした後に、落札額が多かった金融機関に対して、今回たくさん買った理由はなんですか、といったこともヒアリングする。制度の有無こそ違いますが、そういうコミュニケーションは、当時も今も基本的にはあまり変わっていません。服部 大きな違いでいえば、現在の方が、会議体などがしっかりしているということですね。齋藤 そうです。市場との対話という点で作られた会議や懇談会は、私が最初に国債課に着任した頃にはなかった会議です。プライマリーディーラー制度自体が元々なかったというのもありますが、プライマリーディーラーとの会合みたいなものもなかったし、投資家、保険会社とか銀行とかアセマネとの懇談会もなかった。こういう会議体をそれぞれつくって整備していき、市場関係者との定期的な意見交換の場を作っていったのが、2000年前後くらいからの市場改革の1つの大きな成果物でしょうか。

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