ファイナンス 2023 Oct. 37齋藤通雄氏に聞く、日本国債市場の制度改正と歴史(前編) 当時はまだそれこそ小泉政権の特殊法人改革前なので、道路公団とか住宅金融公庫とか、そういう所も全部財政投融資のお金で回っていたんです。したがって、政府系金融機関だけではなくて、道路公団にお金を貸して高速道路を作るとか、あるいは新幹線の建設資金になったり、住宅金融公庫を経由して、いろんな住宅を建てるなど、そういう公共事業の原資として財政投融資が使われていました。これが財務省が各省庁に対して、色々なパワーを発揮する一つの源になり得ていたわけですよね。なので、旧理財局の中でいうと、資金運用部で財政投融資をやっている人たちは、割と主計局の経験者も多く、財務省の仕事で言うと、より本流に近いという印象でした。服部 「資金運用部」というものがあったということでしょうか。齋藤 理財局の中にある課の名前も今と違って、今だと財政投融資をやっている部署に「財政投融資総括課」というのがあります。そこの下に財政投融資の計画官という、どこにいくらお金を貸すかみたいなことを決める課長クラスの担当者がいます。当時、財政投融資制度改革の前だと、財政投融資の部署は資金一課、資金二課、地方資金課という三課体制で、資金運用部資金という言い方をされていたんですよね。それは、今と財政投融資の仕組みがそもそも全然違っていて、財政投融資制度改革の前なので、郵便貯金で集めたお金、あとは国民年金の原資、公的年金の原資、それが資金運用部に預託されました。ゆうちょとか年金で、もともと国民から預かっているお金が、大蔵省資金運用部というところに預けられて、そこからさっきお話ししたみたいな、特殊法人とか政府系金融機関に貸し付けられるという仕組みだったわけです。それをゆうちょや年金も自主運用しましょうね、その代わり、財政投融資の資金は、財務省が自分で国債(財投債)を発行しましょうというふうに切り替わりました。財政投融資改革(財投改革)です。服部 「資金運用部」という部があると思っていましたが、具体的には資金一課、資金二課、地方資金課などが担っていたのですね。お話を伺っていると、国債課に異動されたタイミングはちょうど財投改革が議論される中だったわけですね。齋藤 私は1998年の夏に理財局の国債課長の補佐に1998年時点の国債課服部 当時の国債課はどういう状況だったのでしょうか。齋藤 昭和50年(1975年)代から平成になるくらいまでの間、新しい年限の国債をどんどん出しています。その時期に何が起きていたかというと、まさに昭和50年代に、建設国債だけでは国債の発行が足りなくなって、赤字国債・特例公債を出さないといけなくなりました。国債の発行額が増えていく中で、国債発行当局が新商品を次々と導入しながら、増える国債をどうやって円滑に発行するかを工夫していた時期です。その後平成になって、バブルが来て景気も良くなり、一なりました。1998年は、タイミングでいうとまさに財投改革の頃です。資金運用部ショックと言われる国債の暴落・金利の急騰が起きたのもその時です。なぜ資金運用部ショックという名前になったかというと、財投改革前は、さっきお話ししたように、資金運用部には、ゆうちょとか年金がお金をいわば預けてくれるというか、受け身でお金が入ってきていて、それを道路公団や住宅金融公庫、特殊法人、地方自治体に貸したりしていました。その中でもどちらかと言うと、ゆうちょ・年金から入ってくるお金のほうが、特殊法人などに貸すお金よりも多かったので、手元に余裕資金があったわけです。その余裕資金で、マーケットで国債を買う、あるいは国債発行当局から、理財局の中同士なのですが、直接引き受ける「運用部引受」がなされていました。つまり、資金運用部が余裕資金で国債を引き受けてあげるということをやっていたわけです。ところが、財投改革の後は、今まで入って来ていたお金がもう入ってこなくなるので、今までみたいに余裕資金で国債を買うみたいなことが当然できなくなるわけです。むしろ財政投融資の人たちは、自分たちが国債を出す立場になっていくので、そういう事もあって、もう国債は資金運用部では買えませんよという話になるわけです。でも、そのことをマーケットはちゃんと予想出来ていませんでした。「資金運用部がもう国債を買わなくなるらしい」というのが、マーケットの人たちにとってサプライズになり、それが結局金利の上昇に繋がりました。それが1998年の12月のことですね。なので、着任して半年で資金運用部ショックが起きたということです。
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