ファイナンス 2023年10月号 No.695
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ファイナンス 2023 Oct. 35齋藤通雄氏に聞く、日本国債市場の制度改正と歴史(前編)服部孝洋 特任講師 て1、2年生を過ごした時期でした。そういう意味では、まさに非常に大きな税制改革を裏側から見ることができました。入省直後は、1年生として、会議のメモ取りみたいなことも仕事の一部でしたので、政府や自民党の税制調査会に行って、どういう議論が行われているのか一生懸命メモを取って、というようなこともやっていました。なので、就職する時に考えていた、政策が決まるプロセスを見てみたい、という希望は入省して最初の頃から割と満たされていて、やりがいがあったし、楽しかったですね。ただ、当時のメモ取りは、今みたいにICレコーダーがあって、パソコンで自動で文字に起こしてもらえるみたいな時代とはわけが違うので、会議中はひたすら手書きでメモをとって、戻ってきてまたそれを手書きで一生懸命綺麗にメモに起こすという時代でした。例えば税制調査会の会議が夕方にあると、戻ってきてメモ起こしをスタートするのが夜で、全部メモを起こし終わると夜中です。そこから上司にチェックをしてもらった上で、さらにそれを関係者に配る。それも、今だったらメールか何かで添付して共有すれば終わりますけど、当時はそんなものは何もないので、ひたすらコピーを取って配って回るということをしていました。起こしたメモを配り終わると、当然電車がないような時間になるという、体力的にはハードな生活でしたけど、中身はやりがいがあり、そういう意味では楽しかったですね。服部 その後1989年にドイツに留学されますよね。なぜドイツを選ばれたのでしょうか。齋藤 父の仕事の関係で、子供の頃にちょっとドイツに住んでいたことがありました。幼稚園に上がる前の年齢だったので、全然記憶にはないんですが、子供の時のアルバムを見ると、ドイツで撮った写真があるので、なんとなくドイツに行ってみたいなと思っていました。私ぐらいの世代、当時の大蔵省に入った公務員だと、就職して三年目というのが留学に出るチャンスで、どこの国に行きたいかという希望を一応出せるんですが、大体みんな英語圏ですよね。アメリカ、イギリスを希望するんです。私も第一希望はアメリカだったんですけど、今お話したような事情があって第二希望でドイツと書いたものですから、第二希望でドイツ財投改革時に国債課に異動服部 海外から帰ってきて、まさに本題である国債課に1998年から2001年にいらっしゃったわけですね。個別のことの前に、まず当時の国債課がどういう感じだったのかをお聞きしたいです。なんて書く人は他にいなかったので、じゃあお前はドイツに行け、という感じになりました。服部 その後、フランクフルトに3年いらっしゃいますよね。最初の海外が長かったということですか。齋藤 そうですね。直接留学からフランクフルトに行っているわけではなくて、留学の後一回日本に帰ってきて、それからフランクフルトに行きました。齋藤 そうですね。まず今の財務省の局には、大臣官房という全体の取りまとめや調整をやっている大臣直轄部隊のようなグループがあります。民間企業でいうと総務みたいなものです。それ以外に局が5つありまして、予算を担う主計局、税制を担う主税局、関税制度を担う関税局、インターナショナルなことをやっている国際局、あと理財局です。服部 理財局の国債課だと今2つの課があり、企画を担当する「国債企画課」と、入札などを担う「国債業務課」があります。しかし、当時は国債課だけで1つの課だったということですね。その当時の国債課がどういう感じだったかというのは、今ではほとんど遡って知ることができないのです。マスコミとかでは、資金運用部ショックが、国債課が2つの課に分かれた契機だとされています。齋藤 はい。資金運用部ショックは、1998年ですね。

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