ファイナンス 2023年9月号 No.694
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高渋バイパス利根川早島IC’06-イオンモール高崎76,000㎡図1市街図の範囲高崎駅高崎アリーナ(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成。店舗面積は一般社団法人日本ショッピングセンター協会「全国SC一覧」(2022年末時点)による図2 広域図前橋IC高崎芸術劇場’96-ハイパーモールメルクス倉賀野13,595㎡’96-アピタ高崎11,078㎡中心街群馬銀行本店前橋駅’07-けやきウォーク前橋55,634㎡高崎IC 38 ファイナンス 2023 Sep.も共通している。前三の開店には三越の支援があった。開店時の店長は三越OBである。小売り経験に乏しかった前三に比べ藤五は地元商人が立ち上げた分の一日の長があり、前三の倍以上の売上を上げていた。他方、チェーン店の進出が相次ぎ競争環境は厳しかった。百貨店が開店した年には十字屋が、その3年後の昭和42年(1967)には緑屋が進出。他にも長岡市本店の丸専、熊谷市に本店を構える八木橋百貨店が高崎店を出していた。そして昭和43年(1968)、前橋市に本店を構えるスズラン百貨店が高崎店を立ち上げた。創業者の渋沢康平は高崎出身で念願かなっての出店だった。これに対して藤五百貨店は昭和44年(1969)、伊勢丹に提携を要請し追加の資本と役員を迎え入れた。昭和48年(1973)には関係を一段と強化し「藤五伊勢丹」に改称。それまで非常勤だった伊勢丹出身役員を代表取締役会長に据えた。出向受け入れを増やし幹部ポストに据えた。昭和50年代に本格化する駅前再開発を見据えての策だった。昭和57年(1982)11月に上越新幹線が開通。高崎駅の新駅舎が完成し、駅ビルのモントレが開店した。藤五伊勢丹は「高崎伊勢丹」に改称。駅前集積の勢いに押され業績は厳しかったが、伊勢丹のブランドを前面に出して押し返そうとした。それでも一矢を報いることはかなわず、昭和60年(1985)8月に閉店を余儀なくされる。奇しくもこの年、高崎市の最高路線価地点が連雀町から「通町東京風月堂前大手前慈光通り」に移った。連雀町と駅前地区の中間点である。高崎城の正門から続く大手前通は城下町時代から行き止まりで、突き当りには慈光山安上越新幹線の開業と駅前の変貌昭和50年代は、それまで倉庫はじめ物流施設が散在していた駅前地区が一大商業地に変貌した年代である。再開発を機に商業施設の進出が相次いだ。背景には上越新幹線の開業があった。昭和51年(1976)、上越新幹線の着工年でもある年、高崎駅西口にニチイとダイエーがオープンした。その翌年には高崎高島屋が開店した。ほぼ同時期に3店オープンする事態を受け、十字屋と緑屋が昭和51年に撤退している。国寺があった。安国寺は群馬県庁が前橋に移るまでの一時期に県庁が置かれたことで知られる。昭和42年(1967)に安国寺が移転。跡地が再開発され、山号にちなんだ名称の「慈光通り」ができた。慈光通りの開通で連雀町と駅前地区が直結した。他方、慈光通りは連雀町から駅前地区への誘導路にもなった。平成3年(1991)には最高路線価地点が「八島町サロン・ド・ジュン前市道高崎駅・連雀町線」に移った。現在の地図でいえば高崎高島屋とモントレの間の道だ。以来、現在まで33年連続で高崎の最高路線価地点である。健闘する駅前集積平成に入ると車社会化が進み、商業機能は郊外に分散した。平成8年(1996)には店舗面積10,000m2クラスのハイパーモールメルクス倉賀野、アピタ高崎店がオープンした。対して駅前のサティ(旧ニチイ)は若者向けの高崎ビブレに業態転換を図る。差別化が難いと判断したダイエーは平成6年(1994)に閉店し

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